空が満ちる時



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エピローグ 〜この空を見上げて〜


「ごめんなさい。私……」
 彼女に振られたのはもうずっと前のことだった。
 半年近くも前のことになる。
 いつの間にか異性として好きになっていた僕は、その時初めて勇気を出して告白した。
 けれど彼女は他に好きな人がいると言って断った。
 そのことは僕にまるで世の中全てに絶望したかのような脱力感を味わわせた。
 そこから立ち直れたのはポロのおかげとしか言いようがない。
 うつろだった時にどこかから拾うかもらうかしたらしく、どのような出会いをしたのかは未だに思い出せない。
 少しだけ心が落ち着いた頃、彼女が家族旅行に出かけるから見送りに行くことになった。
 それは僕と彼女の家が昔馴染みであり、家族ぐるみでの付き合いをしていたからに他ならない。
 そうしてあの悲劇が起こり、彼女は居候いそうろうとして家に迎え入れられた。
 それまでの記憶一切を失くして。
 それから一緒に暮らし始めて、彼女が誰のことを好きだったのかは分からず仕舞いだった。それなのにこうして今までとは違う好意を寄せられるのは辛いところもあった。
 誰か他に好きな人がいたのに、彼女はそれを忘れてる。
 他に誰か好きな人がいるのを知っているのに、彼女が向ける好意を甘んじて受けている。
 聞く人が聞けば反吐へどの出るような嫌な話だろう。弱味に付け込んでいるようなものだ。
 自分でもそう思うところがあった。
 それでも、彼女の親戚の様子から彼女が歓迎されそうにないのは目に見えていたし、彼女自身これまで住んでいたという所から離れたくないと言っていた。言い訳にしかならないが彼女の意見を尊重した結果だと僕は言う。
 一度彼女から断られた僕は、記憶を失った彼女からは酷く頼られた。
 複雑な事情に、心がきしみながらも僕はちかった。
 この先彼女の想いがどうなっても、護ろう、と。
 できることなら、主人を護るために命を惜しまなかった騎士のように、と。
 自分がどれほど非力かは、マスコミ連中のおかげで痛いほどよく分かったけれども。
 引くことなんてできるわけがない。
 どれほど滑稽こっけいであろうと、最後まで演じ切ってみせよう。
 決して報われなくても、諦めはしないと。
 空虚だと分かっていながら、だからこその決意。
 彼女に記憶が戻るその日まで。
 せめてものこと――


 あたしがそれを見たのは、まったくの偶然だった。
 五メートルほど離れた所から、見知った二人の声が聞こえてきた。
 それは俗に言う、告白だった。
 透から、愛夏への。
 明里の気持ちが少しずつ、透へと向かって行ってそうだと思い始めた矢先のことだった。
 あたしはじっと、愛夏の答えを待った。
 気付かれないようにそっと、隠れて様子を見守った。
 愛夏の答えはノーだった。
 けれどあたしは気付いた。
 それが決して、今言っているような理由で断ったわけではないことを。
 簡単に言えば、愛夏は怖かったのだろう。
 今までの関係を壊すことが、ではない。
 幼馴染みと付き合う、ということが。
 高校に入って、少しばかり疎遠そえんになっていた幼馴染み。好意は持っているが、それが恋に結び付くような物かを本人も分からなかった。だから断った。
 彼女はどちらかというと安全策を取る部類だった。
 だから山崎透の告白にイエスと言えなかった。
 もし自分の持つ物が友情以上にならないものだとしたら……。
 特に考えてもいなかった異性との付き合いに、常日頃から消極的だったことも関係してそうなった。
 認めよう。
 この時あたしは明里にとって良い方向へ向かっていると思った。
 親友として、喜んだ。
 反吐の出るようなことだった。
 彼女の好きな相手は彼女の友人にフられて、それを嬉しく思ってる自分が酷く汚い物のように思えてならなかった。
 どうしてあたしはこんなに汚いんだと自分を責めたこともあった。
 でもそれでどうにかなることもなく、時は過ぎてあれが起こった。
 負い目と言えば、負い目。
 ああなってしまう前に決着できなかったあたしの負け。
 最低で、最悪なあたしへのいましめ。
 あたしはもう後ろを振り返らない。
 前へ、前へと進むだけ。
 障害があるのなら、全力でそれを叩き斬る。
 あたしはもう迷わない。
 そして、必ず――


 俺が美浜から二人のことを聞いたのは少し後になってのことだった。
 そこそこ話すぐらいの間柄だった俺はあいつが落ち込んでるのはどういうことだと思っていた頃のことだった。
 俺はそれを聞いてやっと得心とくしんがいったんだ。
 そんで以てどうにかして元気付かせるかと考えてるうちに一週間ぐらいが経って、聞きたくもないことを耳にした。
 夢なら覚めろと願ったさ。
 何に願ったかって?
 そりゃあもうありとあらゆる神様仏様にさ。
 でもどいつもこいつも俺の願いを聞き入れてはくれなかった。
 葬式に出て、透の様子見て、そこでまた俺は遅れて知った。
 彼女が記憶喪失になったってことを。
 どんだけ後手後手に回ればいいんだとヤケ自棄になったね。
 それからだ。
 俺があいつらととみに親しくなっていったのは。
 目を離せなかったんだ。
 またあんなことが起きるんじゃねえかって。
 そしてそれは現実になった。
 あいつの事故を聞いた時は心臓が止まるかと思ったぜ。どうしてこうこいつらの周りにだけ不幸が訪れるんだ。もういいだろうってな。
 こんだけのことがあって、元々神だ何だなんて信じてなかったけど、余計に信じなくなった。今ではもう神頼みなんてのを聞くだけで肌が粟立あわだちやがる。
 ああそうそう、こんな風に付き合うようになって、俺は鋭いからな、誰が誰を好きだ何てすぐに気が付いたぜ。
 俺個人の意見としては透には明里ちゃんとくっ付いて欲しいね。
 私見だけど、それが一番幸せになれるような気がするんだよな。
 今回あいつがどれだけ心に傷を負って、その上重荷を背負ってるのかは見てりゃ解る。それから開放される、ってわけじゃねえけど、一度フられた相手に忘れられてそれでも仲良く一緒に付き合って行くのって辛いんだぜ。ただの友達やってる俺でも時々言いようもなく重い気持ちになるんだからな。
 マンガとか、ドラマとかじゃそういうのを乗り越えてみたいなのが美談として出てるけど、別に絶対そうじゃなきゃいけないって訳でもないしこれは重過ぎる。
 不幸になるなんて決め付けねえけど、この先彼女が記憶を取り戻すことがないんならダメだと俺は思ってる。
 だからってアンフェアに事を進める気はねえ。最終的に決めるのはあいつだし俺と美浜はそのサポートだ。周りで無理なお膳立ぜんだてしてくっ付けたって長続きはしねえからな。
 イベントを目白押しにぐらいはするけどな。俺だって楽しくしていきてえし。
 んでもって何やかやと終わったら――


 セミの鳴き声が耳にここちよ心地好く届く。
 子守唄のようにちょうど良い音量で、木陰にうっかり座りでもしたら眠ってしまいそうだ。
 空は適度に雲を浮かべて過ぎ去って行く。
 まぶし過ぎる光はここまで届かない。
 空がよく見えるのに、太陽は薄い雲におおわれて光量を調節されている。
 一言で言えば、これ以上ないほどに素晴らしい天気だった。
 その良い天気の中、透はかれこれ十分も眠気と戦っていた。
 終業式が終わったその日から打ち上げもどきをしなくてもいいのに、と思いつつ反対や不満を抱きさえしなかった透。
 彼は集合場所である日陰のある校舎内の一角、校門に程近い場所で適当な段差に座って待っていた。
 夏休みの宿題や課題が大分出されたが、そんな物は気を重くする一要因とさえなり得なかった。
 別にいいのだ。まだどれだけ遊んでも。
 宿題は写せば良いし。
 幾つかの答えは全員に渡されてるし。
 こういうところがエセ優等生とか言われる主な理由なのだが、本人は至って気にしていない。見た目だけで優等生だのそうでないだのなどと、そんな戯言たわごとは星の彼方にでも飛ばしてやれば良い。宇宙人はとても喜ぶだろう。
 透は実に久しぶりに退廃的な思考をしたことにほくそ笑む。ようやっと、心に余裕が出てきたということか。
 右手を顔に持って行き、そこで思い出す。
「眼鏡、掛けるの止めたんだったな……」
 あの事件から透は眼鏡を掛けなくなっていた。
 気休めを、止めたのだ。あの男が言っていたことが脳裡によみがる。意識が鋭利になるのを自覚した。
 あの飛行機事故を起こした犯人がいる。これからどうするのか。
 答えは一つだった。自分で捕まえる。
 正義感からではない。ただのけじめだ。
 愛夏から何もかもを奪ったそいつを、自分の手で何とかしなければ気が済まなかった。
 あの光景を見ておきながら、止められなかった自分を少しでも許すには――いや、腑抜ふぬけた自分を自分で叩きのめすには、それしか方法がなかった。それにこれは警察が手を出せることではない。
 透は静かに息を吐いた。
 急に眼鏡がなくなったことでまだ体が慣れていないのか、たまに手持ち無沙汰な感じになる。
 透が眼鏡を掛けなくなったことに皆、一様に首をひねっていたがそれも一日経てば埋もれていく瑣末さまつな出来事でしかなかった。
 愛夏はこのことに関して一言、
「うん、そっちの方が良い」
 とだけ。
 美浜と真一はそれぞれ、
「どういう心境の変化かは知らないけど、いいんじゃない? あんたがそうしたいんなら。別に何も言わないわよ。ファッションなんて人それぞれだし」
「ああ? 何で俺が一々お前の服装に気ぃ使わなきゃなんねえのよ。野郎が何しようと俺は頓着とんちゃくしねえんだよ」
 明里は、
「あ、似合ってます。似合ってます、から……」
 しぼんでいく声にどうにも申し訳なくなっていたたまれなかった。
 他にも何か言いたそうな顔をしていたが、赤い顔をしてうつむいてしまったのでその先を聞くことはなかった。
 ぼんやりとつらつらしたことを思っていると、肩を叩かれた。
「ん?」
 振り向くとそこに真一がいた。
「どうしたよ。こんなところで眠っちまってよ」
「いや、眠ってないぞ。そう見えただけだろ」
「いんや、眠ってたね。証拠に、今何時だ」
「うん?」
 透はポケットに入れておいた携帯を取り出して時刻を確認する。
 目をこすった。
 もう一度見る。
 今度は目を疑った。
 夢じゃないのか?
 透は横にいる真一を見上げた。
「まあ、見ての通りだ」
 っつうわけで今日の昼はお前のおごりだ。
 死刑宣告よりも冷たい現実がそこには広がっていた。
 よもやこんな落とし穴があるとは。
 誰が想像できただろう。
「因みに、女子はもう先行ってるぞ。早くしねえと何食われるか分かったもんじゃねえよな、おい」
 元気出せよ。
 トントン、と優しく背を叩く感触も遠く、透は空を見上げた。
「ああ、これが現実なんだな」
黄昏たそがれるにはまだ早えから。まだ昼だから。現実逃避すんなよ。お前がそうなったら俺が払わなきゃいけなくなるだろっ。って聞いてんのか。逃げんな! 俺を置いてくなっ。恩知らずっ」
 ぎゃあぎゃあわめく、奇々怪々な生物をほっといて、透は全速力で打ち上げもどきの予定会場――その正体は甘味屋、つまりはデザートを主とするカフェっぽい店――へと走った。
 目的は暴挙の阻止。
 このままではこれからの夏を乗り切るのに必要なお金が泡と消えてなくなる。
 それだけは阻止せねば。
「うおおぉぉぉぉぉっ」
 もしかしたら自己新記録になるかもしれない走りで先を急ぐ。
 夏は、まだ始まったばかりだ。







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