空が満ちる時



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第四章 〜空と月と窓に訪問者〜


 コンコン
「どうぞ」
 許可の声が聞こえて一秒後、病室のドアが開けられた。
「あら、君は……」
「こんにちは、松原先生」
赤峰あかみね君、だっけ」
「はい」
 人の良さそうな、それでいて悲しそうで、どこか達観たっかんした気のある少年がささやかな花束を手にしていた。
「これ、学食連盟ものずきどもからの物です。どうにも、代表として俺が行くのが適任だと言われてしまいまして。俺、一年生なんですけどね」
 困ったような顔で言う赤峰は、こういうことに慣れていないようでおどおどしながら花束を手渡した。
「ありがとう。これは……アングレカムね」
 アングレカム。その花は白く、良い芳香ほうこうを放っている。匂いがきつくなり過ぎない程度に詰められた花束を松原志枝は近くの台に置いた。
「ええ。花言葉は、祈りだそうです」
 口喧くちやかましい先輩が言っていました。
「そんなこと言っていいのかしら。仮にも先輩なのでしょう?」
 二人共に苦笑して、どちらともなく夕暮れに染められた空を見た。
「えっと、見舞いって何をすればいいんですか?」
 きょとん、と松原は赤峰の顔を見つめた。
 赤峰はそのことで更に困惑してしまい、右へ左へと視線を泳がせた。完全に上がっているようだった。
 変化にとぼしい表情と、苗字に赤が入ってるくせに赤くならないのとで分からなかったが、どうやら緊張していたらしい。先程窓の外を見ていたのだって間を悪くしないための配慮だったのかもしれない。
「そんなことを言う見舞い人は初めてね。『鋼の胃袋』といえども他のことはからっきしみたいね」
「そういうわけでもないですけど。ほら、ほとんど会ったことも話したこともありませんし」
「そういえばそうね。よく話を聞くからどうにもそんな気がしないのよね」
 考える仕草をする松原は他に人がいるのも忘れて感心していた。
 置いてきぼりにされた赤峰はどうすることもできずじっとしているしかない。
「あ、ごめんなさい。ちょっと驚いちゃって。皆への報告もあるんでしょう? 私のことはもういいから、遅いし、帰った方が良いわよ」
 見舞いに来てくれてありがとうね。
「あ、えと、それじゃ失礼します。復帰は、一週間後なんですよね」
「そうよ。念のために一週間の休みを取ってから来るように、って言われたのよ。その間に色々と事後処理をするんでしょうけど。ま、その辺りは大人の世界ね」
 ひらひらと手を振って適当なことを言う。それでも赤峰は込み入った事情でもあるのかと納得した様子だった。
 病室のドアを再び開けて外に出る時、赤峰は思い出したように振り返った。
「今日、これから外に出るのなら、事故現場に行った方が良いですよ」
「え? ちょっと」
 松原が訊き返す暇もなく少年――赤峰は出て行ってしまった。
「どういうこと?」
 ふと気になってもう一度花束を手に取る。すると中から、
「催涙スプレー……って何が何でも出ろってことよね」
 一体彼は何を考えているのだろうか。
 それは彼女には分からず、そして彼が彼女に何かをさせたいのは分かる。
「行くしかない、ってことか」
 一つ、溜め息を吐いた。
「でも、まだ危ないのよね」
 デルイは未だ回復し切っていない。この状態で下手に動き回るのははばかられた。
「デルイ?」
 いつの間にかデルイがその姿を現していた。見た限りではその体に負っていた傷が影も形もなくなっていた。
「明日まで掛かると思ってたけど、これなら大丈夫そうね」
 すでに行く気になっている自分に辟易へきえきしながらも、これも生徒の身に何かあっては困るからと言い聞かせる。
 問題はどうやって病院を抜け出すかだが、まさか本当にあれを使うわけにもいかない。持って行く気もない。
「となると、隠れて行くか堂々として行くかの二択ね」
 細分化すれば、前者は更に五通りの方法がある。しかし大抵は使えそうにない案ばかりだった。
「やっぱり、正攻法で行くのが一番ね」
 運の良い事に本職は学校の保険医だ。上手く白衣を着るか、病人ではないと思われるように振る舞うノウハウは実際にやったり見たりして――こっちは主にサボりの生徒や本当に怪我をしてきた生徒などから――蓄積されている。
 できないはずはない。
 そう心の内で呟いて松原志枝は立ち上がった。下手に動くと危険だからという理由でずっと横になっていたせいか体の血流が目まぐるしく変わって目眩がした。
「もう大丈夫だし、明日の退院時間までは適度に動こうかしら」
 たった一日だけとはいえ着せられている入院服からたた畳んであった私服へと着替え、松原はぼやく。
「行きましょうか」
 誰にともなく言い置いて、彼女は扉を開いた。
 窓から見える空にうっすらと輝く月は、もう淡くも白くもなかった。


 状況は、一言で言うと劣勢だった。
「はっ、逃げるしか能がねえのかよ! この腰抜け共がっ」
 美浜の木刀も、振り回される鉄パイプの前にいつまでも持つはずもなく、十度目に真上から振り下ろされた一撃が透と真一をかばった美浜ごと吹き飛ばされた。
 見るも無残に粉砕ふんさいされた木刀は、元の長さが半分になりもはや使い物にならなくなっていた。
 はじ弾けるように壊されたせいか、獲物としては殺傷力が増したもののリーチが短くて到底鉄パイプの攻撃をくぐって行くことは怖くてできない。
 幸いなのは相手が武道に関して素人だったということか。それでも体力バカらしく鉄パイプを延々振り回していられるだけの体力はまだまだあるようだった。
 怖い世界というのは自然と体力が付くものなのだろうか。
 なんとはなしに考え、自分も今その世界の末端に触れているかと思うと身震みぶるいした。
 今現在、透たち三人は廃工場の中を隠れながら動き回っていた。
 あの男は死神をけしかけてこないが、それでも透たちの動きを探るのにくらいは使うはずだ。それに、相手が死神で攻めてこないのはまだ余裕があるからだ。
 あと、いきなり余裕がなくなると冷静な判断も下せなくなることも分かった。さっきのも、あの死神をぶつけさせていればさっさと美浜を排除できたにも拘わらず――透は少なくともあの死神が他の死神とは異色で人を傷付けられることは理解していた――それをしなかったことから分かった。
「ごめん。不覚取った」
「あのな、人かばいながらじゃ無理あんに決まってんだろうが。一々気にしてんじゃねえっつの」
 使い物にならなくなった木刀を捨てて逃げ出した三人は物陰に隠れながら奥へ奥へと進みながら話していた。
 透が眼鏡を掛けてないことについては、殴られていたこともあってか何も触れられなかった。
「素人でもあんだけ振り回されたらどうしようもねえって。むしろ俺と透が足引っ張っちまってよ」
「それを言ったら真一。そもそもは――」
「ああもうっ、いいわよ。こんなことばっかり言っててもしょうがないわ。はいっ、もう切り換えて。あたしがこう言えば納まりが着くでしょ。さっさと自虐は止めてあの変態どうにかしましょ」
 ぶーっ、と頬を膨らませて美浜は言い捨てた。言った本人も含め三人全員で渋々とそれに納得することにし、ごみごみした工場内を歩き続ける。
 奥の工場内は思ったよりも物が置かれたままになっており、き出しになったままさび付いた機械や段ボールに入れられたままの荷物が転がっていた。
「あーこりゃあれだな。よくあるんだよ。会社が倒産したらこういう土地どうにかしなきゃいけないんだけど、金ないからってほったらかしにしてんの」
 真一が、こっちが物珍しそうに辺りを観察しているのを見て取って、親切にも小さく耳元で教えてくれた。
 小声で言ったのは見つからないためだが、耳元で言ったのは美浜に聞こえなくするための配慮だ。
 いっぱし一端のくだらないプライドを持つ男として、自分の知らないこと・分からないことを周り――特に異性に――声高に言われるのが嫌である。まあいわゆる弱味を握られたくないというようなものなんだけども。いや美浜がそういうのかどうかは別にして。
「あんたたちどうしてひそひそ話してんのよ」
「うん? いや音響いたら不味いだろ」
「だったらどうしてあたしと話す時はそのままなのかな」
「――ッ、バカっ。お、俺にお前の耳元で、さ、ささやけと?」
「なっ、誰もそんなこと言ってないじゃない。どうしてって訊いただけで、別に他意はないんだからっ」
「大声出すなよ二人とも。思いっ切り響いたぞ」
『うっ』
 気まずい、喉に何かが詰まったような声でハモる。どちらもがおんな同じ表情であることもある意味見所である。
 こんな余裕ないというのに、どうしてこう緊迫感に欠けるのだろうか。
 独りで奴とたいじ対峙した時は、どうにもならないくらいダメなことを考えたりもしたというのに。
 誰かがいてくれるだけで落ち着ける。これは良いことだ。あんなのを相手にいつまでも辛気臭しんきくさくしてても意味がない。こうして他愛たわいも無いことを考えていればいい。何でもできるわけじゃないんだから、対処療法的なやり方しかなくても腐らなければいい。
 それが甘過ぎる考えだということは分かっていながら、それでもすがってしまったのはひとえに場数が足りないからだった。
 そうだと分かっていながら、そうすることができるようになるには経験と覚悟が必要だから。とりわけこういった命のやり取りになると経験が物を言う。
 突発的な殺人事件や交通事故ぐらいしか身の危険がない日本において、そんな経験を望むのは馬鹿げていたが。
「っ!」
 だけれども。
「見つかった! 逃げるぞ」
「え? おいどこにいんだよ」
「さっきあれだけ大声出したんだから見つからない方がおかしいわよ。さっさと行かないと叩くわよ」
「わ、わかったよ。でもな、暴力女」
「なによ」
「透はどこ行った?」
「へ?」
 いつの間にか二人は透の姿を見失っていた。
 静かに反響する自分たちの靴音しか、そこにはなかった。


「すまん」
 透は一人、元来た道とは別ルートであの男の方へと向かっていた。
 見つかった、というのは本当のことだ。あのアウローという死神が近くまで来ていた。
 逃げ回っているうちに透に一つの考えが浮かんだ。それは友人二人を裏切るような行為かもしれない。けれどもこのまま何の手も打てないのは嫌だった。せめて一矢報いっしむくいてあの二人につなげたかった。
 二人が口喧嘩くちげんかで意識が逸れてくれたのは皆にとって良かったのかどうか。それは答えの出るものではないけれど、今の透にはラッキーに値するものだ。
「あいつは、きっと俺の方を先に狙う」
 そのはずだ。怒りを抱いている度合いでいうなら透に対してが一番大きい。更に言えばわざわざこうして向かって行っている。これで手を出さないはずはなかった。
「上手くいってくれよ」
 さすがに透だって何も考えてないわけではない。
 倒すことはできなくても大分弱らせることはできる。運が良ければこれで退いてくれるだろう。
 というのは嘘で、自分を鼓舞こぶさせるためのはったりブラフだった。
「死ぬかも……」
 いや、相手は殺す気はまだないと言っていた。だから死にはしない。
「いや、でも……」
 二人の乱入で気が変わったかもしれない。そうでなくても半狂乱の相手だ。勢い余ってついついっちまいました、なんてことになりそうだ。
「考えても仕方ない」
 だからってほんとに無策で突っ込むのもどうかと思うけど、これしか思いつかないし。
「もう、神頼みしかないな」
 神などいるとは信じてないが、それでも祈りたくなってくる。これで願いを叶えるのが不幸の神とかでなけれ万々歳ばんばんざいだ。
「そろそろか……」
 透は乱れた息を整えようとペースを落とした。カンカンカツカツと響く足音が次第しだいに落ち着いていく。
「不意打ちは、逆効果かもな」
 相手は一人ではない。自分はあのアウローという死神に触れられない。と言うよりも死神全般に今までさわ触れたことはなかった。
 自分の死神である小さなのにも。
 透の死神とは、喋らない、騒がない、無愛想、こっちからは触れないくせにあっちからはけっこう好き勝手に干渉できる、憑いている相手以外には干渉できない、というものだった。
 しかし、あのアウローは透の知る死神とはどこか違った。
「あいつは事故に見せかけて殺したって言った」
 つまりは透が覚えているあの影。つまりはアウローらしき死神がトラックの運転手の命を刈り取ったことになる。冷静に考えた後は、てっきり偶然、運転手の寿命が来たのかと思っていたが。
「でも、なんで最初からこっちを狙わないんだ?」
 それが分からない。
 あっちからこっちに好きに干渉できる死神だというなら、どうして透の死神から攻撃を仕掛けた? 何か理由があるのか?
「……来た」
 タイムアップ。
 もう何かを仕込む時間もない。
 苛立たしげな足音がどんどんと近付いて来ていた。
「おう? 何だ、こんなところで待っていたのかよ」
 透の姿を見つけた男がにやついた顔で言った。
「あの二人はどうした? 見捨てられたのか? それともそこらに隠れてんのか?」
 男はもう鉄パイプを持っていなかった。
 追い掛けるのに邪魔だから捨てたのか、それとも遊びは終わりなのか。
「けっ、いねえみてえだな」
 男の後背にぼんやりと死神の姿が現れた。アウローだ。
「死にたがりかよ。興醒きょうざめだぜ」
 心底嫌そうな顔をする。どうやら、これからは本気で叩き潰すつもりらしい。
「ところでよぉ、せっかくだから訊くけどよ。お前、参加者≠ナもねえくせに死神が見えるとか言ううんじゃねえだろうな。てめえの動きとか言ってることとかやってること考えるとどうしてもそれしか答えが出ねえ。なあ、おい。このゲームの名前が何て言うか、知ってるか?」
「ゲーム、だって?」
「ちっ、どうやらマジで見えてるだけみてえだな。どうりで反撃もしてこねえ、死神に命令もしねえ、死神を置いて逃げる。ふざけやがって」
 冷静さを取り戻しているみたいではあるものの、元々の気性の激しさは抑えられないようだった。
 その双眸そうぼうに残酷で無慈悲な色を出し、どうやって透をぼろぼろにしようか思案を巡らせるように少しばかり上へ動いた。
「ああ、いいか別に。参加者≠ナもねえのに戦い吹っ掛けた俺が馬鹿みてえだ。人をコケにしたのを生かしておく義理はねえよな」
「うっ」
 相手は透を生かす気を失くした。それが分かる、よくよう抑揚のないあっさりした口調だった。
 一歩、足を進めることも退くこともなく金茶二色の男はアウロー自分の死神に命令した。
「まずは、そこのクソザコの死神を殺れ」
 ニタリ、一方的な虐殺に思いを馳せた男の笑みが透ののうり脳裏に焼き付いた。
「……っ!」
 正面から来るアウローに思わず手を伸ばした。
 本気になっているのにわざわざこっちを狙うのには理由がある。そう思ってはいたが具体的な対策もないままだった。そんな中、手を伸ばしたのは反射的な防御行為だったとしか言いようがない。
「え? ……え?」
 透が突き飛ばす形で伸ばした手がアウローに当たり、アウローをかなり遠くへと吹っ飛ばしていた。
「おいおい、何で触れんだよ。参加者≠ナもねえくせに」
 わけが分からない。
 二人共に不本意ながら同じ顔をしていた。
 透にはその参加者≠ニいうのが何なのかは分からない。ただそのことによって何かしらの変化が男と死神に起きてるのは間違いないみたいだった。
 男の口振りでは参加者≠ニなった後に死神が見えるようになったらしいからだ。
「参加者=Aゲーム、それがかぎか」
 突破口になると決まったわけではない。それでも考える価値はあった。
 とにかく、今はあの死神にこちらからも攻撃ができるということが分かっただけでも収穫はあった。これで対応できる。
「アウロー」
 男が名を呼んだ。
 アウローは頷くような様子を見せると再び透の死神を攻撃しようと動いた。今度は透を避けるようなコースで。
「くっそ」
 透も駆け出し、アウローの横っ面を殴り飛ばそうとする。当然、警戒していた相手はこの一撃を躱し透の死神に鎌を振るった。
「たーっ!」
 そこに透の破れかぶれなキックがヒット炸裂する。アウローは攻撃がずれ、透の死神は防御した。
「ザコのクセにねば粘りやがって。しょうがねえ、アウローッ、たたみ掛けろ!」
 男の怒号がアウローに立て続けの、透の攻撃を恐れない怒涛どとうの勢いをさせる。
 防御と回避を捨て、オフェンスだけ徹底的な攻めで来るアウロー。受けることを前提にされているためか、透の攻撃でもあまり飛ばされなくなっていた。
「うっ!」
 アウローの攻撃を受け損ない、刃が透の左腕をすり抜けた。
 怪我はない。死神の攻撃はすぐさま体に出てくるような物理的な一撃とは違うからだ。
 それでも喰らったということからショックを受け、体が一瞬だが強張こわばった。
「しまっ……!」
 死の刃が透の死神へと届く、その一瞬。時間が限りなくばされたように感じ、もどかしいほどに体の動きが制限された気がする中で、決してしてはならないミスを犯したことを確信した。
 顔は後ろを見ているはずなのに男の顔が真正面に映り、その口元が勝利の雄叫おたけびを上げんと開かれていく。
 ヴ〜ッ、ヴ〜ッ、ヴ〜ッ
 場違いな音がした。
 あまりにも場違いで、しかもタイミングよく鳴ったものだから、物事に動じることのない死神アウローでさえも動きを止めた。
 男のあんぐりと、間を外されてだらしなく開かれた口は何の声を発することもなく震えている。
「て、てめーっ。さっさと出やがれ!」
 ビシッ、と指を突き付けて男はガーッと怒りにかまけて大きなリアクションを取った。絶対に我を忘れたアホみたいな行動だったが透もあまりなことに大慌てで従ってしまった。
 ピッ
 制服のポケットに入れていた携帯電話に出る。
 考えてみればもしあの鞄にこれを入れていたら透はもう――実際にどうなるのか分からないので確証はないが――命を失っていただろう。
 アウローは指示待ちで男の下へと戻っていた。もしかしたら命令が途切れると傍に移動するようにしているのか。
 横目でそのことを確認しながら意識を電話へと集中する。こんな状況で下手をすれば命取りとしか言いようのないことだが、男の様子では終わるまで手を出しはしないだろう。
 結局のところ、透程度では脅威でも何でもないのだ。そのことに落胆し気が重くなる。つまりは自分の死はそうそう逃れられないことだからだ。
「もしもーし。透、どうしたの?」
 電話に出たのに声を出さないことをいぶかしんでか、電話の相手が再三のコールをしていた。
「ああ愛夏、何でもない。今のところ、大丈夫だ」
 嘘は半分。何でもないわけではないが、今大丈夫なのは真実だ。電話を切った後は地獄だとしても。
 透は多分に真実と嘘をり交ぜて愛夏にこちらが危険だということを悟らせないつもりだった。
 危険な目に合うことの少ない日本でそんなことに頭が回るのはよほどのイカれた人物か常日頃からそんな目に合うと覚悟をしている者ぐらいである。それでも心配を掛けさせないという意味で透は神経を使った。
「そう? 家に帰っても誰もいないから電話したんだけど。ポロも珍しく出かけてるみたいだったし……」
「へえ、ポロが? たまには運動しないといけないからちょうどいいんじゃないかな」
 微苦笑さえ浮かべてそうな口調ではあるものの、実際の透の表情は固い。声の震えにそれが出なければ良いと思いつつ透は会話を続けた。
「透? 何か変だよ。やっぱり何かあったんじゃないの?」
「ほんとに何もないよ。大丈夫。そんなに遅くはならないから」
 安心させるために身の安全を示す言葉を多用した。けれどそれがまず不味かった。遅くはならないという微妙に真実を含みそれでいて間違いであることを言ったのも失敗だったのかもしれない。
 愛夏は敏感びんかんにもそのことに気付き言及しようと声を荒げた。
「嘘っ。絶対に何か隠してるでしょ。いつもより饒舌じょうぜつだし」
そんなに普段は口数が少なかっただろうか。というか無口だと見られていたのか。
 何気に酷いことを言われた気がしてげんなりし、それも目の端に映る今にも襲い掛かってきそうな男の姿を見て一気に憔悴しょうすいした。
 ある意味板挟いたばさみと言えなくもないことに、これほどに最悪な板挟みが恋愛沙汰ざた以外にもあったのだなと身を以て知り、したくもない感心をする破目はめになった。
「だから何もないって。愛夏、この前の事で神経過敏しんけいかびんになってるんじゃないか? 今日は少し早めに休んだ方が良い」
 二目と見られない姿にでもなった時、少しでも伝わるのが遅ければいいと透は思っていた。こんな訃報ふほうなど一生掛けてでも隠蔽いんぺいしたい気分だ。
「そういえば今日の用って何だったんだ? 隠し事してるって言うならまず自分のことから言ってみたらどうだ?」
 最低なやり方とは知りつつもついつい透は相手の言えない事情に水を向ける。
 隠れて大きなイベントを画策してるらしい彼ら仕掛け人には仕掛ける対象にどんなことをするのか悟らせたくはないはずだ。そこら辺を重点的に突けば相手が答えにきゅうするのは目に見えていた。
 その対象にすでに知られてるとは知らず。まあ、何をするかまでは知らないのでそれは当日までのお楽しみといこう。生きていればの話だが。
 どうしても後ろ向きなことばかりに考えがいく。そのことに嫌気が差しながらもそれが現実であり今更逃避のしようもないことである。悩んでも仕方ない。ここは一つ開き直って行った方がだいぶ気楽だ。
「うう〜」
「なんだ言えないのか? しょうがないな。言える時になったら言ってくれ。今はそれで良いから」
「う……ん」
 案の定、愛夏は何も言うことができず透の言い分に上手く丸め込まれてくれた。電話が終わってすぐに気付くような稚拙ちせつなトリックでしかない。後で会ったら怒られることは必至ひっしであろう。
「それじゃあ切るぞ。後でな」
 相手の返事を待たずに電話終了のボタンを押す。
 終わらせてすぐさま飛び掛かって来るかとも思ったがそれはなかった。一先ずそれに安堵あんどしながら意識を全て男と死神へとかたむ傾ける。
「一つ訊くぞ」
 金茶の男が思いも掛けないことを口にした。
「今の電話の相手、香則愛夏かのりあいかか?」
 肌が粟立あわだつ、とはこのことを言うのだろう。背中に電流が走ったかのようにピリピリと皮膚に不快なかゆみを与え、体の随所ずいしょが必要以上の力を加えられてこおる。
「みたいだな。こりゃあ、大物を引き当てたか」
 男が愛夏の名を知っていることに殊更ことさらの違和感はない。あの飛行機事故のことがあってからニュースで散々奇蹟の少女≠ニして取り上げられたのだから。
 むしろ問題は男が愛夏に興味を持ったことである。明らかな異常者であるこの男が次に何をするかなど考えるまでもない。
 吐き気をもよおす自分の想像に心中で制裁せいさいを下し、あのハゲタカマスコミどもと同じようなことをするに違いない目の前の男に改めて怒りを覚えた。
 はっきり言ってしまえば、今度のが一番大きな怒りであった。それまでこの男にいだいてきたのは甘さの残る怒りだった。自分でもどうかしてると思うが、本当にそういう部分があったらしい。
 つくづく煮え切らない性格だ。
 心の内で毒吐き透は拳を握り締めた。
「あの人が仕留め損なったのを殺れば、この俺もはくが付く。運が良いぜ」
「仕留め、損なった?」
 何やら不穏な言葉が男の口から漏れだし始めていた。
 冷たい汗が一筋、つつと流れる。
 聞いてはいけない言葉がこれから出そうで、頭がぐわんぐわんと酩酊めいていしたかのように痛み出す。
 視界もまともな状態ではなくなってきていた。
「てめえはあの事故のことをどれくらい知ってんだ? ただの事故か、それともあれを見たのか」
 舐めるように視線をは 這わせる男は続きを訥々とつとつと述べる。
「その顔じゃあ何か見たようだな。もっとも、真相は知らねえようだが」
 視線に喜色が強く混ざる。
「俺だって名前も顔も知らない人だが、俺はあの人を真似てこんなことをやってるんだぜ。あの時のことは今でも身震いするほどの凄さだった。自分も同じ参加者≠ナあることにあれほど興奮したことは初めてだった。死神を操る=Aそれがあの人の力だと俺は思うね。突然、飛行機のパイロット共が自分の死神に刈られる姿は爽快だったぜ。それからだ、俺がこうして事故に見せかけて殺るようになったのは」
 恍惚こうこつの顔で、快活な声で、狂気に犯された目で男は語る。
 その様子に嘘や虚言といったものは見られなかった。妄想だと切って捨てるには似たようなことを見た透にできはしなかった。
「いいこと教えてやったんだ。しっかり泣きわめけよ」
 都合の良い事を言う男には構わず、透は唇を噛んだ。
 血でも出れば、と思ったがそう簡単に唇が切れるはずもない。そして透はそんなくだらないことを考えた自分に腹が立った。
 何もここでそうならなければいけないという法はない。余計なことに気を巡らせる余裕もないというのに、どうしてかそんなしなくてもいいかっこつけに走ってしまう。
「どいつもこいつも…………くだらない」
 ただのまねっこにこっちは付き合わされたのか。どこの誰とも知らない糞野郎が今度の事件の発端か。
 剣呑けんのん・険悪・嫌悪というレベルを跳び越え、もはや感情の一片さえ生まれなかった。
 しかし爪も牙も力もないのに傷を負わせられるのか。
 透はまたもやくだらない自問に帰ってくることにほとほと嫌気が差した。
「そう簡単には変われないか……」
 意識して変えられるのにも限界はある。後はそれをどれだけ実現できるようにするかだ。
「お喋りは余計な時間ばかり掛かるな。こちとらそれなりに殺しをやったところであのガキのことを思い出したんだ。感謝はするが手加減はしねえぜ」
「しててこのざまか。一体どれだけの時間が経った? 十分か、二十分か、三十分か、それとも一時間か?」
 やっと分かった。相手の弱点。どうして気付かなかったのか。ずっと前から何回もヒントは出ていたというのに。
「てめぇっ、調子に乗ってんじゃねえぞ!」
 予想通り中身は小物だ。
 透は自分との実力差はともかく相手の三下ぶりに感謝した。相手が三流どころじゃない五流の相手だったことは運が良かった。
「もう一度言うぞ。お前は、声をすぐに荒げるほどの三下だ。下っぱ 端」
「このっ……アウローッ!」
 これまで見せた中にはない、大胆不敵な様子に相手はぶち切れた。本当に、これぐらいで挑発に乗ってくるようなので良かった。
「うおおぉぉぉぉっ」
 透は男が死神を呼ぶと同時に走り出していた。
 狙いは一つ、男を思いっ切り殴ることである。自分の死神を護りもしない、捨て身の特攻。
 透が気付いた相手の弱点。それは男とアウロー自身にあった。
 今までアウローの攻撃は命令されなければ絶対にしては来なかった。男が美浜に襲われた時も、傍観ぼうかんしていたアウローならば気付いてしかるべきことなのに、一歩もその場を動かなかった。
 次に、アウローへの命令はほとんど名前を呼ぶだけでされていた。細かなことは口にしていたが、それ以外は短い一言である。まるで、男の考えていることが、ある程度分かるかのように男の思うよう攻撃を仕掛けていた。もしも違う動きをしていればあの男のことだ、必ず恫喝どうかつしていたはずだ。
 けれどこれだけでは確証はない。
 自分の中でその答えを確定付けたのはついさっきの出来事だ。
 携帯が鳴ってできた一瞬の空白。それは男の思考さえも空白にしたに違いない。そしてあの位置まで来ていれば止めることの方が難しいのにピタリと止まった。
 それは男の思考が止まったからではないか。あんな不自然に止まったのは死神がまともな物理法則から外れているから。普段は触れられない死神のことだ、それもありだろう。その上、宙に浮いていたし。
 だからといって確実ではない。それでも直感も合わさって絶対にそうだと透には言い切れた。
 構えも何もない、がむしゃらで直向ひたむきに走っただけ。男はそれを見て嘲笑ちょうしょうする。
「せめて一発だけでも、ってか? 残念だな、その前に終わっちまうぜっ」
 唐突に、本当に不意に男は目をいて固まった。
「んなっ……そんなのありかよ! 嘘だろっ。何でこんばぁっ」
 驚愕きょうがくの声を上げ忘我ぼうがしてしまう男。
 その男に殴ることだけを考えていた透に男の言葉は耳に届かない。透はそのまま腕を振り切っていた。
 顔面粉砕ジャストミート
 文字通り鼻っ柱を折られるような勢いで拳が入り男は転がった。
「あ……が、が。ご、ごんな。ぐぞっ、でめぇ……よくも殴りやがって。そんな卑怯な手使いやがって――っ」
 完全な逆恨みによる逆上。片手で押さえた顔からは血がどばどばと流れ出していた。
 憤怒ふんぬの形相で透をにらみ付けるも床に倒れ伏した流血者では話にならない。しかもあまりの手応えに本人は自分でも驚いていた。今は何を言っても聞こえそうにない。
「覚えてろ。絶対に復讐してやる!」
 三下に相応ふさわしいお決まりの文句を言って逃げ出す金茶の男。
「透!」
「大丈夫かっ」
 入れ替わるようにして反対の方向から現れたのはあの二人。
 美浜は護身用にとでも拾ったのか何かの硬そうな骨組みを手にしていた。
 真一の方は付いて行くのに精一杯のようで美浜の少し後ろを走っていた。
「え、ああ。大丈夫だ。心配ない。あの男も、さっきどこかに行った」
 よく分からないままも透は答える。
 その態度が気に入らなかったのか真一は透に掴み掛かってきた。
「バカ野郎っ! 何勝手に一人で行動してんだよっ。てめえの身が一番危ねえのは分かり切ってたことじゃねえのかよ! 結果的に無事ならそれで良いってもんじゃねえだろうがよぉっ」
「こらっ、真一。あんたは心配だったの分かるけど強く掴み過ぎ。気絶しちゃってるよ」
「へ?」
「……………………」
 緊張の糸が切れたのと、突然の首絞めとのコンボが見事に決まり透は気絶していた。気のせいだろうが真一にはエクトプラズムが見えた。しかし自分は霊能者でもないし今までそんなのが見えたことはないので焦ったあまりの幻覚として無視した。
「悪ぃ。すまん。許せ」
 それでも真一は謝った。決して本当に死に掛けていたからではない。断じて違うと真一は心の叫びを上げた。
 合掌がっしょう
「ミ〜」
 どこかでそのことをはかなむような猫の鳴き声が、無常の風として彼らの周りに流れた。


 川を渡るために作られた大きな橋を、ほうほうのていで走って行く男が一人――。
 頭を二色の色に染めたその男は、顔だけは恐怖の色に染めていた。
 使っていたバイクはさっき壊れてしまっていた。その時、体に三つの引っ掻き傷のような怪我を負っていた。
 爆発炎上までした不幸は、彼の死神がかなりの痛手を受けたことを示していた。
「ちくしょう。アウロー、アウローッ。……使えねえ。肝心な時に、白猫なんかにやられやがって。くそぅ」
 かすれた声で、服のすす忌々いまいましげにはらう。
 死神がいなければ、幾つもの不幸がその身に降り掛かる。今更ながらに戦慄せんりつして、男は苦悶くもんうめきを上げた。
「あん?」
 前に一人の人間がともった街灯の下にいた。
 その人間はスーツ姿に身を包み、隠し切れない獰猛どうもうな瞳を丸眼鏡を掛けて緩和させていた。
 相手はまだ気付いていない。
「はは。やっぱついてるぜ」
 服の下からナイフを一つ取り出し、ゆっくりと忍び寄る。
 目の前にいる人間の姿が更によく見えてくる。
 あの邂逅かいこうの時と同じようにシナモンスティックを口にくわえて川の流れを見ている。
 確実に間を縮め、後はもう飛び出せば仕留められる位置まで来た時、女が口を開いた。
「そんな物で私を殺せると思ってるの?」
 静かな、底冷えのするこわね声音だった。
 ぎくりとした男はそこで立ち止まり、それからすぐにナイフに触れて持ち直した。自分は武器を持っている。相手は持っていない。今は自分と同じで死神が弱っているから単純な力比べだけを考えれば良い。
「ふざけんなよ。この状況が分かって言ってんのか」
「ええ。よーく分かってるわよ。あなたがどうしようもないってことが」
 自分の方を向きもせず、暗い川の流れを見ていることに男は言い知れぬ怒りを覚えた。
 独善にもならない身勝手な思いを男は年上の女にぶつける。
「どいつもこいつも、人を見下しやがって…………。ぶっ殺してやる!」
 ナイフを小脇に抱えて男は女に目掛けて走る。走る。走る。
 けれど、どれほどに走ろうとも女に近付くことはできなかった。そればかりか、段々と後ろへと下がって行っていた。
「な、なんなんだ」
 足元を見る。足は、前へと進んでいるはずだった。しかし、男が見たものは常軌じょうきいっしていた。
「おい……おい、何してんだよ俺の足は。なんで、なんでバックなんてしてるんだよっ。ちくしょう。前だ、前に行けよっ」
 前に進もうとすればするほど、足は後ろへと戻って行った。
「お、お前かっ。お前だな。俺に何をした! 言えよっ」
 よたよたと後ろへ下がりつつ男は恐怖に染め抜かれた顔で訊いた。
「大したことじゃないわよ? ちょっと、デルイの力をあなたに掛けただけ」
「う、嘘だっ。アウローの、俺の死神が負わせた傷は治りにくいんだよ! あんだけの傷が一日で治るわけねえんだっ」
「事実として、そうでなければ何があなたを意に沿わぬ行動をさせてるのかしら」
「あ、ああっ」
 凶悪な笑みを常套じょうとうとしていた男は今、自分にそれが向けられることに耐えられなかった。
「ありえない。ありえないっ。そんなの死神が弱った奴でも、されるはずがないっ……」
 ひ、ひひ、と漏れ出る息はなにゆえ何故出た物か。
 恐怖か、焦りか、目の前の現実を受け入れられないからか。
 どれにせよ、男が自分の体を思うとおりに動かせない事実は変わらない。
「なら、死んだんでしょ。あんたの死神は」
「ありえない。ありえない……」
「どうやってかは、知らないけど」
「あ、ああ、ああっ」
「あんたもできたんだし、ね。確める機会は、もう永遠にないけれども」
 男の体が橋の手摺てすりに寄り掛かった。
 男はなおもありえない、を呟き続ける。すでに目から生気は失われ、廃人にでもなったかと松原は心配した。
 まだ話は終わっていないのに。
 パァンッ
「ねえ、まだ意識はある? ちゃんとした、人の話を聞けるぐらいまともなの」
 頬を叩き、詰問きつもんする。体はまだ後ろへ下がろうと足を動かしているので胸倉むなぐらを掴んでのことだ。
「う、ああ。ある。あるから止めてくれ。もう、止めてくれ。命だけは……」
 叩かれた拍子に下を見たのか、男は命乞いのちごいを始めた。
「あるみたいね――なら、言わせてもらうわよ」
 彼女は獲物をもてあそぶ猫のようなまなこを向ける。
「これまでやりたい放題で、楽な死に方できると思うなよ」
「あひっ、あひぇっ、あっ、ゆ、許して……ください。もう、しませんから。何でも、言うこと聞きますからぁっ」
 情けない。
 涙を流し、だらしなく開いた口から出る言葉に松原はもはや何一つ言う気にならなかった。
 手を離し、間合いを取る。男は許されたと勘違いしたのかほっとしている。そしてその目に光った復讐のたけ猛りを見逃しもしなかった。
「ふつうは、とどめを刺すのは自分の手でやるしかないんだけどね。どうしたって相手を傷付けることはできても、死なせることはできなかったから」
 安心しました、という演技を続ける男に彼女は言う。
「でも、あんたがこうなったのも少しは解るかもね。あんたがどうしたって救えない奴だってのに変わりはなくても」
 男は、信じられない、という顔で松原を見ていた。
「自分で手を下さないと、抱えた命の重さって解らないものなのよね。あ、あんたはそうじゃなかったっけか」
 ばしゃん
 彼女が言い終えた時、男の姿は橋の上から消えていた。
 何一つ残すことなく消えていた。
 つまらなそうに一人残った彼女はシナモンスティックを口から取った。
 それを手向たむけのように川へ投げ入れると、二度と振り向きもせずに歩き去った。
 人の少ないこの場所で、唯一ともっていた街灯が明滅めいめつする。
 不自然に――まるで事が終わるのを待っていたかのようにあかりも消えた。
 後には何も残らない。
 何一つ、残らない。
 そして次の日、一人の男が川で発見された。
 頭を二色で染めた、まだ若い男だったそうで、その顔はまれに見る苦しみ抜いたものであったらしい。
 この事は、近くにあった男の物と見られるバイクから、事故にあって逃げる時にあやまって川に転落した不運な出来事として片付けられた。







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