空が満ちる時



あらすじ エピソード0 プロローグ 第一章 第二章 第三章 第四章 エピローグ エピソード0 あとがき

第三章 〜愚者の愚者たる所以ゆえん


 松原志枝の起こした出来事は、一部の生徒――主に学食派――が知るところとなり、紆余曲折うよきょくせつを経て真一へと届き、透たち四人の耳に入った。
 そして昼休み。今日もまた、昨日と同じく真一と美浜、愛夏の三人は透と明里から離れて行動するむねを伝えた。
「あの人は大丈夫だってよ。人一人いたっぽいけど、そっちも重傷ってだけで生きてるしな」
「そっか。良かった……」
 真一の言葉に胸を撫で下ろす明里。美浜もどこか安堵あんどした表情でまっすぐに立っている。
 愛夏と透はそれほど表情には出していないが、ほっとしているのは見て分かるほどだった。
「先生は軽傷で一週間もすれば復帰できるってさ。事故の方も調べられて、原因不明の機械の不調ってことでなんかあんま重い罰が下されるわけじゃないみたいだしよ」
 おどけた仕草でだいじょーぶだいじょーぶと念押しして四人からにじみ出る重めの雰囲気を払拭ふっしょくした。この様子なら彼自身が受けたダメージも完全に回復したようだ。
「っつーわけで俺らはそろそろ行かせてもらうぜ。今日もお前は明里ちゃんと二人っきりのランチタイムを楽しみな」
 バイバーイ。ぷらぷらと後ろ手に手を振って教室のドアへと向かう真一。その後から美浜が気に喰わないところでもあったのか蹴りを入れて吹っ飛ばして行った。
「えっと、実は今日だけじゃなくてしばらくはこうなっちゃいそうだから」
 ごめん。
 そう言って愛夏はたったったっと走って二人の後を追い掛けた。
「何話してるんだろうな」
「何なのかな。そんなに時間の掛かる用なのかな」
 透と明里、二人は同時に疑問の声をも 漏らした。
 二人は顔を見合わせ、どちらともなく吹き出した。
「く、はは。あいつらが何をしてるかはそのうち分かると思うよ、草永海さん」
 透が席から立ち上がり、明里に移動しようという意思を雰囲気だけで伝える。
 二人が向かったのは昨日行った屋上、ではなく学食だった。
 学生たちの食に関する研究所。略して学食に来たのはある意味自然な流れだった。
 養護教諭である彼女がいない今、この学食がどうなったのかを見に来たのだ。
「やってるな」
「うん、やってるね」
 変わらず、むしろいつもより盛況と言わざるを得ない様子だった。
 人の流れは普段見かける倍。席に座ってる生徒たちの顔は期待に胸を膨らませる乙女たちのようだ。
「どうしたんだろうな」
 透はどこか釈然しゃくぜんとしない面持ちで辺りを見回す。
 明里もそんな透にられてかきょろきょろと、つい先日見たときとは違うこの様相に落ち着きがない。
 出入り口にたったまま、二人してそんな態度であるものだから当然彼らにちょっかいを掛けてくる者も現れる。
 さわやかスポーツマンがそうであった。
「おう、お前らもアレか? 鬼の居ぬ間の洗濯ってやつをしに来たのか? 松原先生って意外と近寄り難いからな。実はここの客足遠ざけんのに一役買ってるって話もあるぐらいだしよ」
 一体どんなことをすればそんなことができるのか。同い年と思われる、けれど良く陽に焼けた肌を持つ彼はニカッと笑ったまま喋り続けた。
「ほら、早く入りな。ここの良さを広める大チャンスだしさ。そっちもちょこっと協力してくれよ」
 すっきりとした物言いでくし立て、あれよあれよという間に透と明里は中に連れ込まれてしまっていた。
「おっちゃん、秘蔵のカレーパン二つお願いね」
 しかも勝手にメニューまで決める始末。あきれて物も言えないとはこのことだ。
 物怖じしない性格なのか、彼は元気一杯に話し掛けてくる。
「いや〜、ここに来て最初に当たり外れのあるもん食ってもどうかと思ったからさ。あんたらには悪いけどオススメを選ばせてもらったよ」
 あっはっは、いや悪い悪い。
 こんな風に頭に手をやりながら言われたら誰だって怒りはしないだろう。現に二人はそうならなかった。
「んじゃ、俺はこの辺で失礼させてもらうかな。邪魔者は退散しなければならないからね。ね?」
 そこでパッチリと決まったウィンクまでしてくれた。これで同年代とは思えないかっこよさである。
 快活で世話好き、話術も上手ければ運動も上手に違いない彼はきっと部のリーダー、またはそれに準ずるポジションを獲得していることだろう。
 ただ一つ残念なことは、透と明里の仲を勘違いした早計さにある。
 おかげで何とも言えない微妙な雰囲気の中、二人は秘蔵と言われるカレーパンが届くのを待ちびなければならなかった。


「これがカレーパン? いつも見る丸いのとは違うな」
「うん、表面がパリッとしてるのが春巻きみたいだよね」
 出来上がった秘蔵のカレーパンは見た目からして見知ったカレーパンとは違った。
 円形の多いカレーパンにあって、今ここにあるカレーパンは多角形。柔らかいパンに対してサクサクした食感が期待できるパンだ。
 作り立てらしくまだ熱いことがうかが窺える。作ってる人が出来立てであることにこだわったのかもしれない。
 二人は恐る恐る初めてのカレーパンに口を付けた。とりあえずまずは外側を少しだけ、という食べ方だ。
「あ、やっぱりサクッとしてる」
「凄いな。パンだけでもかなり美味い」
 二人は驚きながら二口目に入り、中のカレーへと到達した。
「え?」
「うわぁ」
 透は思わず口を離し、明里は喜びに口元に手を当てた。
 中のカレーはトロトロで本当に『カレーパン』という代物だった。
 二人がこれを完食するのにさ 然したる時間が掛からなかったことは言うまでもない。
「確かに、秘蔵と言うだけのことはあるな」
「うん、毎日食べても飽きないかも」
 まさか学食にこれほどの一品が眠っているとは思いもよらなかった二人。称賛の言葉が尽きない。
「どうだい、気に入っただろう?」
 そこに来たのはあの爽快そうかい少年。
「友達にも紹介してくれると嬉しいな。なにせ今日のことで学食が閉鎖になってしまうかもしれないからね。ああ、あと謝っとかないとな。あれ、実は呼び込みだったんだよ」
「え、どういうことですか?」
「そのままの意味だよ。責任者が不祥事を起こしたところを、いつまでも開けておくわけにはいかないのさ。それにここは色々と問題が多かったからね」
「じゃあ、今日ここに来てるのは皆……」
 透が周りを見渡すと、ほとんどの生徒がどこか憂いているような表情をしていることに気が付いた。
「そう。ここがなくならないように、これだけ必要としてるんだこれだけ愛してるんだってことを客として来ることで示してるのさ」
 やけにクサいことを素で言ってしまえる彼の横顔はどこまでも真摯しんしだ。そのことに少なからず自分と比較してしまう。
 してもしょうがないってのにな。
 心の内で首を振って邪魔な感情を振りほど解くと、透は視界の先、正確には真摯な彼の後ろに見えた人影に注意が向いた。
「あれ?」
 どこかで見覚えのある人物だった。でも誰かは思い出せない。そこにいる人物とは話したような気もするし実はただ道で擦れ違っただけかもしれない。言えるのは絶対に一度は会ったことがあるということだけだ。
「ん、おお彼に気付くなんて良い目を持ってるじゃないか」
「知ってるんですか?」
 いつの間に彼女も見ていたのか、明里が透の見ていた先に目をやりながら訊いた。
「彼は一年生ながらもここでは有名人でね。『はがねの胃袋』を持つ男なんだよ」
「鋼? 普通は鉄じゃ……」
「ん、ああ。それはね、っと来た来た。今彼の向かいに座った大きなの、彼が『鉄の胃袋』の持ち主だよ」
 そこに現れたのは大柄、と言うのが生易しい、ちょっと言い方に困る体型をした人だった。こちら側から見える襟章えりしょうの色から彼が三年生だと分かる。そして両手にどう考えても抱え切れているのがおかしい量の食べ物が――料理と言うのもはばかられるほど大量かつごちゃ混ぜで――あった。
「また対決≠ナもするのかな?」
「また、って前にも?」
「うん、そうだよ。前にもやったんだ。で、その時に負けてね。彼の称号を譲ろうとしたんだけど……」
 そこで少し言葉をにごした。今日初めて会ったが歯切れの悪い物言いは今までなかった。それがここでこうなるということは。
「あまりにも桁違いでね。今日だってもう五回はおかわりに行ってるはずだよ。いつもより速いペースだね」
 しかも、彼絶対に当たりが出るやばいのを食べても一人だけ、そうあそこにいる鉄の胃袋でさえ倒れたのを食べても倒れなかったばかりか、更に何度も食べてるんだ。
 スポーツマンな少年は賛美の籠った視線で問題の彼を見たまま語る。
「化け物だ……」
 透は呟いた。
「全くだね。一度に二人前ほどしか持ってこないから一月ぐらい誰も気が付かなかったんだけど、最低でも十人前以上食べてるって聞いた時はさすがに驚いたよ。面白そうなんで見てみたら、どう考えたって胃袋の体積より腹に入れてるんだから。いるんだなって思ったよ。マンガとかに出てくるのが本当にいるんだなって。それから俺は彼の信奉者になってね。もちろん、あの対決の時も彼の勝利を確信していた。なぜなら――――――」
 途中から雲行きの怪しくなったスポーツマンを横目に、透は明里の肩を叩いた。
「わきゃっ」
 予期していなかったせいで彼女は体が浮き上がるほどビックリしていた。
「長くなりそうだから、もう行こう」
「あ、はい」
 こくん、と頭を縦に振ってから彼女は答えた。
 透は立って食器を片付けに歩く。明里もそれに続く。
「――そう、まさにこれは天啓! 神が世界に与えた食への新たな――そしてこれこそが真なる――」
 まさかこんな危ない方向に思考が延長しているような人だったとは。まあ、ここ学食にいる時点でまともじゃない可能性は多々あったのだが。
 世の無情を感じながら透は幸せとか青春とかってのはどういうものなんだろうな、と思い始めていた。
 おかげで鋼の胃袋を持つ少年のことなどすっかり頭から抜け落ちていることに透はいつまでも気が付かなかった。


 とある学校内の一室。適当な数のイスと机しかないここで、なにやら三人ほどがごそごそと動いていた。
「んでよ〜、どうするわけ?」
 イスの背凭せもたれを前にして座る一人の声。それに反応する声がまた一つ。
「それを今考えてるんでしょ。策なんて絶対ありませんって顔してるんじゃないの!」
 ガルルルルゥゥゥ
 獣の唸り声が現実にさえ聞こえてきそうなほどに険悪な美浜。彼女の内心は非常に複雑であった。
「え、いやその、別にそんな深く考えなくても」
「甘いわね」
「そう、あめぇぜ。甘々だ。きっと氷も溶けちまうくらいに」
「あんた砂糖で氷溶かすの?」
「おう、そうだぜ。んでもって適度に溶けたところをグビッと飲むのさ」
 けけけけっ
 コウモリのような顔で笑う。それは本当にえげつない笑い方だった。
「ぐばぁがっ?」
 顔面に三本目の足を生やし、真一は床へのダイブをさせられる。
「あんたは何がしたいのよ」
「の、乗ってきたのはそっちだぞ」
 背中を強かに打ち付けたために息も絶え絶えな返答をする。
「ま、いいわ。どうせあんたには期待してないから」
 んべーっと、ともすればそんな風に受け取れるぞんざいな言い方で美浜は背を向ける。
「にしても、これ以上何も出てこないのは事実よね」
 美浜の視線の先、そこには黒板に書きなぐられた文字がいくつも自身の存在をアピールしていた。
 一番上には一言真夏のイベント大奮発≠ニ書かれ、その下には主役級イベントと点打ちで書いてあった。
 主役級イベントに入っているのは四つ。花火、祭り、肝試し、そして愛夏の誕生日、である。
 その横に、盛り上げ用イベントと書かれ、同じように幾つものイベントがめんどくさそうな字や丁寧な字に角度の鋭いのと、三種類の字で色々と書かれていた。
 他にはイラストやら色彩のコントラストやら遊び心満載の仕様で作られていた。
 透と明里の二人きりにする代わりに真一と美浜が言い出したのがこの夏休みイベント三昧だ。
 イベントの所々に何かと期待できる場面を盛り込み、その計画立案に立ち会うことでイベント時のアドバンテージを得させる。
 二人にとってはある意味苦渋の選択だった。過去のことを忘れてる本人や明里は知らないことだ。美浜と真一が知っているのも、片方は偶然で、もう片方は雰囲気から何となく悟ったことだからなおさらだ。
「しっかり決めないといけないのに、こんな絵とかばっかり描いて昨日は終わっちゃったのよね」
 だがそれでも二人はこのことに手を抜くつもりはない。だからこそこうしてちゃんと考えているわけなのだが、どうにも状況はかんばしくなかった。
「でも、見栄えは良いよね」
 懊悩おうのうする美浜を愛夏ははげました。
「そうね。なんとなくやる気の出る仕上がりね」
 うん、とどこか満足そうに美浜と愛夏は頷いた。
「んじゃ、さっそく作業に取り掛かるか」
 気分が一新されたところで美浜が黒板へと向き直り、
「まずは主役級のイベントがいつ行われるのか調べないとね」
 すかさず黒板にさよならを申し出た。
「ああそれはもう調べてあるから大丈夫。安心して煮詰めるのには入れや」
 復活した真一が背中を押さえながら言う。
「なに偉そうに言ってんのよ」
「はいはい、一々目くじら立てんな。こちとらお前の馬鹿力で蹴飛ばされて節々がいてぇんだからよ」
 蹴りを入れられた顔をわざとらしく押さえると美浜の顔に青筋が少しだけ浮き上がった。
「悪かったわね。怪力女でっ」
「ああそうだぜ。まったく、もっと人を労わるということを覚えた方が良いぜ。でないと、一生彼氏さえできねえからよ」
 声を出して笑う真一。美浜はぴくぴくと顔面の筋肉を動かす。できるだけ我慢しようとしてるのがよく分かる一面だ。
 愛夏は美浜の出す空気から彼女がなけなしの女心を精一杯持ち出していることを知った。
「そ、そう。で、でもあんたがそんなこと言える立場なの? あたしが知る限りあんたに彼女がいるところなんて一度も見た事がないんだけど」
 出来得る限りのきょせい虚勢を張って、彼女は真一を見据える。
「だからよぉ、何度も言ってんじゃねえか。俺には婚約者がいるの。分かるか? フィアンセだフィアンセ」
 ったくいい加減覚えろよ。
 と大げさに肩をすく竦めて見せる真一。
 愛夏は美浜に上手く立ち回らせるための秘策を伝えようとするが、その前に真一が止めを刺してしまった。
「大変なんだぜ。この前もラブレターもらったけど断らなきゃなんなかったしよ。いやモテる男は辛いぜ」
「あ……」
 その言葉を引き金に、美浜が残像を残して移動する。そして愛夏が踏み込んだ、と思った瞬間には拳が真一の顔をとら捉え、両足を床から離し、綺麗な弧を描きながら宙を舞わせていた。
「ほべろんっ!」
 奇怪で意味不明な断末魔を上げて机やイスに無理矢理着地させられた真一。しばらく唖然として様子を見守っていた愛夏は、五秒ほど経っても起き上がらないことで一抹の不安を覚えた。
「大丈夫。ええ大丈夫。ちょっと強めにやっちゃっただけだから。これぐらいで死にはしないわよ。骨も折れてないし、ほら、どこも異常ないでしょ」
 喋ってる途中で真一へと近付き、その体を後ろから持ち上げる。確かにどこにも異常は見られなかった。完全に白目をいている以外は。
「脈もちゃんとあるわよ。なんなら気を入れて起こそうか?」
「えっと、止めた方が良いと思う」
 今日は彼にとってとても災難な日だ。こんな状態で起こされても更なる厄災に見舞われることになるだろう。それに受けたダメージが回復しないのに起こすのは気が引けた。
「そう? ならいいわ。止めとく。どうせすぐにまたムカツクこと言うんだろうし」
 真一の体を適当な態勢にしてから離れる。少し長めの髪がさらりと流れた。
 その時にかねが鳴る。
「あ……」
「ああもう、鳴っちゃったじゃない」
 予鈴が鳴り止み、美浜は真一を見る。
「このままでいいか」
「え、でもそれじゃ――」
「いいのよ。こんなのほっといてさっさと教室に戻りましょう。先生には腹痛と頭痛が一緒くたになってきたとでも言えばどうにかなるでしょ」
 言って美浜はドアを開き、ほら行くよと声を掛けて出て行ってしまった。
「…………」
 愛夏は開いたドアと真一を見比べ、結局はそのまま外へと出る。
 真一は、ピクリともその体を動かすことなく放置され続けた。
 ほとんどの生徒も教師も来ない特別教室でのことだった。


 時間は少しだけさかのぼる。
 透と明里は残りの昼休みを中庭のベンチで過ごすことに決めた。
 屋上が開いていなかったためである。
 よくよく考えてみれば分かることではあったが、あの屋上の鍵を開けられるのは松原先生だけだったのである。今日は来ていない以上あそこに行くことはドアをピッキングするか壊したりしない限り不可能であった。
「残念だったね」
「あ、いえ屋上には、その、また行けますから。残念なんかじゃないです」
 透が言ったことに、必要以上とも言えるほど過剰な返事を返す。
 どうやらいつもより緊張しているようだった。
 何が引き金にそうなったのかは透に分かるわけもなく、当たり障りのないことを言ってやり過ごすしかなかった。
「本は、よく読んでたよね。どういったのを見てるの?」
 透は目に入った読書をしている生徒に感謝しつつ、自然と自分が丁寧な言葉遣いになってることにどうしたものかと思いをせた。
 こういった場合、もっと軽い言葉の方が場を和らげるということを知っていたが、話術に精通しているわけでもないのに簡単にできるはずがなかった。
「あっ、この前ドン・キホーテを読みました」
 ひざに乗せた両手をグッと握り、背筋をビッと伸ばして力強く言った。
 その拍子ひょうしにピョコピョコと今にも跳ね回りそうな髪の毛が目の前に見えて透は焦った。
 近い。シャンプーだかリンスだかの匂いがただよって鼻を良い感じに刺激しげきする。穏やかな陽の光に照らされて天使の輪と呼ばれる物まではっきりと目に映る。
 おどわなうおっ。
 それらの情報が一瞬の内に入って来たわけだからたまらない。ただでさえ緊張しているところに年頃の女の子がこんな間近に無防備に近付かれて意識しないやからはいない。しなかったらそれは絶対に相手のことを女と見てないか他に好きな人がいてそっちに完璧夢中な奴だけだ。
 透も実は後者のようなタイプだったのだが、今は色々とあって宙ぶらりんな状態となっている。いってみればこれはその隙を突いた好手にして巧手なのだが、本人が全く意識してないでやってるのでただの偶然の産物というものに過ぎない。
 それでも男心をくすぐると言うか揺さ振らせたのは間違いないが。
 ましてそれまで恋愛経験にとぼしい上に彼氏彼女としての付き合いをしたことのない透には効果覿面こうかてきめんである。
「ど、どんな話だっけ? 風車に突撃する変な騎士だってのは知ってるけど」
「一生懸命なお爺さんのお話なんですよ」
「へえ〜、そうなんだ。意外だな。でもコメディで一生懸命って?」
 透はドン・キホーテについては風車を魔物と勘違いした騎士の爺さんということしか知らなかった。
「コメディじゃないですよ」
 明里はそんな透にほおを膨らませて反論した。その仕草がどこか可愛くて気が付かないうちに小さく笑ってしまう。
「からかってるんですか? 本当にコメディじゃないんですよ。みんな喜劇って思ってますけど、本当は悲しいお話なんですよ。悲劇なんですっ」
「いや、違うんだ。コメディじゃないドン・キホーテってどんなんだろうって思って、つい」
 珍しく必死に抗議する明里に気圧され、しどろもどろに弁解する。
 あまり見ることのない姿に透は泡を喰っていたがそれを表に出してしまうような真似はしない。出したらきっと明里はもっと怒るだろうから。
「それなら良いんですけど……。それじゃ、どんな話か言いますね」
 本当に今日はよく感情をあらわにしていた。
 気のせいかとても楽しそうにしているように見えた。
 よく動くし表情も回るようにどんどん変わっていく。自分では気付いていないのかもしれないがいつものような弱気や言葉に詰まるといったこともない。
「元々、ドン・キホーテさんはただの平民だったんです。でも、騎士道に関する本を沢山読んでるうちに自分が遍歴へんれきの騎士だって思い込んじゃったんです」
 透には初耳だった。まさかドン・キホーテが騎士じゃなかったとは。ついでに言えば遍歴の騎士というのがどういうのか分からなかったがとりあえず問題ないだろうと思った。どちらにしろ騎士は騎士だ。
「それで生まれ育った農村を出て旅に出るんです。お供のサンチョさんを連れて」
 供って。いたんだ。
 透は素直にそう思った。たぶん、原作を読んだりしない限り大抵の人は風車の話しか知らないだろう。
 それから聞いたドン・キホーテの話に透はどこか自分と似通ったところがあると思った。
 最後まで自分が道化であったことに気付かず、道化に気付いた後もまた別な道化となったドン・キホーテ。
 滑稽こっけいで、悲しくて、それでも紳士であり続けた彼。
 きっと、おろか者として生き始めたその時から彼は永遠に愚か者であり続け、たとえ正気に戻っても彼は愚か者としての最後を全うしたんだと透は思う。
 こんな考えを抱くのは自分ぐらいだと思いながら、ドン・キホーテにどこかかれる気持ちを自覚していった。
 確かに彼は一生懸命だった。最後は悲しくて涙の出てくる話だった。それが自分と重なるのだから泣かないはずはない。
 だけれども泣いているのを見せるのは嫌だったから透はそのことを上手く隠した。
 愚かになる理由はそれこそ星の数ほどあるのだろう。この目に見える空を埋め尽くしても足りないほどの数多く存在する理由。
 だけれども愚かになることを人は止められないのだ。
 愚かでなければできないことがあるから――
 と、予鈴が辺りに鳴り響いた。
「あ、鳴っちゃいましたね」
 残念そうに言う明里。
 透は微笑んで教室に戻ることをうながした。
「また何か聴かせてくれないかな。草永海さん、話すの上手だったし」
「え? あ、私でよければいつでも」
「うん、お願いするよ」
 静かに、それでいてどこか強い力で引っ張られていることを、彼らはまだ知らない。
 それは静かであるが故に知られず、強い故に止められない。
 一つの終わりが過ぎ、また新たな一つが始まる。
 けれどいつだって一つしか生まれるわけでもなければ終わるわけでもなく、一つも終わらないうちに幾つもが生まれることもある。
 すでに開かれた扉は開かれたままで、その先へと進むことでしか運命は見ることはできない。
 決して引き返すことのできない未来へと、彼らは足を運んでく。
 止まることのない流れが彼らを押し包む。
 地球を抱く空のように。
 空が、満ちるように。


 暑い日差しから逃れるように仄暗ほのぐらい陰のある場所へと移動しつつ歩く人間が一人。
 金と茶の二色に染めた髪が周囲への存在を必要以上にアピールする中、彼は大多数の人間がそうであるようにこの暑さをうざったく思っていた。
 他に歩く奴らを威嚇いかくして道を奪いながら進む。
 愉快であり不愉快の元となる周囲の反応を苛立たしげに見て舌打ちする。
 腰に下げた銀の鎖が出す音も、今は感情を逆撫さかなでする一要素でしかない。
 雑多に溢れるものを見て不快になり、雑多に溢れる音を聞いて苛立つ。
 それもこれも全部あの女のせいだと彼は決め付ける。
 体に負った傷は思ったより軽かったが、じくじくとうずいて責めさいなみ続ける。時折強く痛むこの傷には憎しみしかいてこなかった。
 どうやって殺そうか。
 どうやって復讐しようか。
 どうやって気を晴らそうか。
 どうやって、どうやって、どうやって、どうやって、………………。
 そんなことばかり考えていた。
 と、彼は前から来る五人の集団に注意が向いた。
「あいつらは……」
 見覚えがあった。いやその程度のレベルじゃない。
 今まで唯一、自分の攻撃をまぬがれた奴らであり、奴らを襲ったすぐ後にあの女が現れたという彼にとって元凶以外の何者でもない。まあ一人二人と覚えのない奴もいるが、特に関係はなかった。
「おもしれえ」
 その顔がゆがむ。
 自分をこんな気持ちにさせた馬鹿はこの手で潰すに限る。
 嗜虐しぎゃくいろどられた顔で彼は目まぐるしく頭を回転させた。
 人通りの多いここで手を出すのはリスクが大きい。相手は五人。せっかくこれだけいるんだ、一人二人とゆっくりやっていこう。それぐらいの余裕は有るはずだ。
 楽しみは長く味わえた方が良いに決まってる。まずは一番人の邪魔をしたあいつにしよう。あいつのせいで誰一人として死ななかったのだから。
「最高だ。いいぜ、やってやるぜ。ほら、早く来やがれ。俺が可愛がってやるからよ」
 残虐な己の思考にたっぷりと酔い、えつに入る。
 これから起こす舞台に奴らを引きず 摺り出して恐怖に支配されていく姿を見届ける。
 まさに最高のエンターテイメントだ。
 引き裂けたように口を大きく広げ、彼は声なき笑声しょうせいを上げた。


「今日はちょっと寄るところがあるから」
 愛夏はそう言ってどこかそわそわしながら行ってしまった。
 というわけで透はいつもは二人で帰る道程をたった一人で歩いていた。
 透の見立てではどうにも知られたくないことをこれからするようであった。真一と美浜の様子から、もしかしたらあの二人と何かたくら企んでるのかと思う。
 ちなみに美浜は今日の部活を休んだ。真一が松原先生のお見舞いに行くと言ったら美浜が自分も行くと言い出したのだ。
 どうにも美浜は前から松原先生と知り合いであり、何度かお世話になったこともあるらしい。木刀持参で見舞いに行くのは正直どうかと思ったがそれは言わない約束である。
 たった一日の検査入院ではあるが、生徒にはとても慕われている先生である。けれど、愛夏と透、それに明里はその見舞いには行かない。
 愛夏は先程のように用事があるからで、透は真一と美浜に行かなくていいと強く言われたから。どうにも少しふ 腑に落ちない強い口調だった。明里は家に客が来るということでそれぞれ別れた。
 ただ別れる前に一つ約束をした。明日の土曜日は、五人で集まって遊びに行くという約束だ。美浜は午前中に部活が終わるそうだからその時に合わせて昼食を一緒に食べて行こうということになった。
 本当なら今の時期、高校では定期テストがある。それは私立のうちでも変わらないはずなのだが、なぜか一ヶ月も早くにそれを済ませていた。なので夏休み一ヶ月以上も前から緩い空気になっている。ただし、その代わりに夏休みの宿題及び休み明けのテストがとても厳しい。
 けれどもまあ、どうにかなるだろうと皆お気楽に考えていたりする。そんなものだ。
 透は静かに空を見上げ、まだもう少しだけ掛かる夕空へと思いをは 馳せた。
 しかしそれも長くは続かない。目の痛くなる空などいくら暇人だろうと長々と注視したりなどしない。それは白内障になるからとかそういうわけでもなくて、まあ色々あるということだ。人それぞれに。
 そうして一人、漫然まんぜんと道を歩く。
 誰かと一緒にいる時はあまり感じなかった蒸し暑さを体感し、陽炎が見えるほどでないにしろ酷い暑さと言うしかないコンクリートなどからの照り返しの熱さもその身に受けることを甘んじていた。
 今年の夏は早く来た。
 理由は簡単。梅雨が例年より早く来て早く去ったからだ。
 おかげで七月の初めである今から暑さを味わうはめになった。正確には一週間以上前からだが、気分としてはその方が楽だ。
 透は実にゆっくりと歩き、その暑さを真正面から受け止めながら、できるだけ汗を掻かないよう勤めた。
 けれども世の中というのは非道で、どうしたってこの気温では汗を掻いてしまう。
「どうして放課後になると一気に気温が上がるんだろ」
 初夏だからだろうか。いや、初夏だからといって夕方でなければ暑くならないという道理はない。
 たぶん、思いも付かない理由があるのだろう。
 昼休みはカラッとしていて風もあり、どちらかというと過ごし易かったが。
 そんな時に時刻は四時になろうとしていた。
 学校と家はだいたい三十分の距離がある。今の季節、普通に歩いて帰っても汗が出てきてしまう。
 透は世の中の不条理に心の中で悪態を吐きながら歩き続ける。
 夏で良いと思えるものは多いが、それと同じくらい嫌だと思うものがある。
 冬は冬で良い事も嫌なことも夏より少ないがその分、プラスマイナスで夏と変わらない。
 春と秋。穏やかな部類に入るこの二つの季節には、南方の人間でもない限り――つまりは台風――この二つが一番好きだというかもしれない。
 しれないと言うのは結局はどれもこれも微妙なところで均衡を保っているからだ。
 そんなわけで透は春と秋が一番好きな季節だった。
 夏、この高過ぎる気温さえなければ良いのに。
 そんなことを思って角を曲がると、道の真ん中に人が一人立っていた。
 この道は一本通りで、歩行者と車が通る道の区別がされていない。人も通るし車も通るというある意味万能な道だった。
 そこに立つ一人の男。金と茶の二色に染め上げられた髪。ここらではあまり見掛けないような派手過ぎる服。腰元にある銀色のチェーンがジャラリと鳴る。
「ここで会ったことを後悔しろよ? でなきゃやる意味ねえからな」
「は?」
 いきなり奇妙なことを言ってきた男は邪悪としか言いようのない笑みを見せつけるようにしながら一歩を踏み出した。
「行け、アウロー」
 踏み出すと同時に呟いた言葉に、透は怪訝けげんな表情をし、途端とたんに驚いた顔をして横に跳んだ。
「おいおい、参ったな。そういうことか。道理で生き残っちまってるわけだ。まさかてめえも参加者アテンダンス≠セとはな」
 参加者。
 一体何の参加者なのか。
 透には皆目見当もつかなかったが、どう考えてもまともでないことは確かだ。
 死神を自分の意思で操るなんて。
「なん、なんだ?」
 透の視線の先には宙に浮かんだ死神、アウローの姿がある。
 さっきはこのアウローが透に向けて鎌を振るってきたのだ。
「はっ、まさか知らねえなんてとぼけたこと言ううんじゃねえだろうな。おい、てめえも早く自分の死神で俺を攻撃してみろよ。お前の死神は一体どんな力を持ってるんだよ」
 でないと何もできずに死ぬぜ?
 男はズボンのポケットからナイフを取り出し、それをちらつかせた。
「ほらほら、生き残るために出せよ。そんで以て苦痛にのた打ち回って死ね。不運にもこの俺に会ったことを後悔してな!」
 男は大仰な動作でナイフを振り被り、突き刺すように上から下へと振り落とした。
「う、……くっ」
 異様な状況に混乱しながらも透はこの攻撃を後ろに下がってかわ躱した。
 だが近くまで接近を許してしまったことがあだとなり二の腕を切り付けられてしまう。
 服が切れ、その下の皮膚が薄く切れただけだが突如として襲ってきた不幸の形に恐怖し、実際の痛み以上に体が痛いと感じてしまった。
 体が震え、情けなくも恐怖に顔を奪われていたに違いない。
 金茶の男が嬉しそうに再びナイフを振るった。
「ほうらっ、早くしねえとほんとに刺されて死ぬぜ。俺たちみてえなのがあっさり刺殺されました、じゃ情けなさ過ぎて目も当てられねえぞ? そんな嫌々してねえでさっさと力を使えよ。なんだ? それとも実は弱過ぎてあってもなくても変わんねえのかよ」
 だったら最悪だよなぁ。こんなゲームに巻き込まれちまってよお。俺がその恐怖から開放してやるから、はやく殺されろよ。ズタズタに引き裂いてやるぜ。今は気分が良いんだ。この俺自らが手を下してやるよ。
 どんどん昂揚こうようしてきた気分に後押しされたのか、それとも人を殺すことがもはや快楽でしかないのか。壊れた微笑をしながら、目だけは真剣に透の動きを追っている。
「どうしたどうした? 何も言わねえとさびしくなるじゃねえか。構って欲しくてついつい深く切りつけちまいそうだぜ」
 逃げ回るだけの透と違い、饒舌じょうぜつに話し掛ける男。愉悦ゆえつというスパイスをふんだんに掛けられた揶揄やゆの言葉に従い本当に深く切り込んできた。
 透もそれに合わせて大きく跳び退すさる。今度は何も切られずに済んだ。
 なぜこうなったんだろう。
 相手との間に若干じゃっかんの距離が生まれ、考える時間のできた透はまず最初にそんなことを思った。
 おかしなことを言う異常者に、通り魔的な被害を受ける。これは不幸なことだ。そう世間は言うだろう。
 けれども現実に、現在進行していることして被害に遭っている方は堪ったもんじゃない。
 周りが不幸だ、可哀想だと言ったって事態が好転するわけじゃない。むしろ悪い方になら転がるだろう。
 だがそれが今の状態で、他に誰もいなくて、死神なんて今まで他に誰も見えなかった誰にでも憑いているのを手先として使う奴に襲われてる。
 どうしろっていうんだ。
 透はまとまりのない思考を無理にでもまとめようとして、更に深みにまって行った。
 俗に言う恐慌状態というやつである。
 こうなってしまっては自分ではどうしようもない。一旦落ち着いたところでしばらく休むか、誰か行動力か人を引っ張って行ける人がしった叱咤するか顔をはた叩くかしない限り抜けられるものじゃない。
 とにかく、透は正常な判断を下せる状況ではなかった。そしてせばまった視界で以て目の前の危険にしか目を向けていなかった。
 だから、失念していた死神アウローがその後ろから透の死神、顔も見えないほど目深に被ったフードをしたアウローと同じくらいの身長かそれ以下しかないそいつに、鎌を振り下ろそうとしているのに気が付かなかった。
「おい。後ろ、見てみろよ。面白いもんが見れるぜ」
 反射的に後ろを振り返ると、すぐそばにまで迫っていたアウローが透の死神に向けて攻撃した。
 ガキンッ!
 運良く、それとも本気ではなかったのかこの一撃はお互いの鎌に当たるというだけで終わった。
 慌てて透はアウローから離れたが、透の死神はその場を動かなかった。
 再びアウローが攻撃を放ち、それを何とか受け止める。それが何度か繰り返されてから思い出したように透は逃げ出した。その時に透は手にしていた鞄を投げ付けたが手元が狂って男の脇をむなしく通り過ぎた。
 そのかん、あのイカれた男は一歩も動かなかった。
 そればかりかこれまで一度も見せなかった驚いた表情を見せている。
 透がアテンダンス参加者≠セとばかり思っていいた相手にとって、自分の死神に何も指示を出さずそればかりかそいつを置いて逃げ出すなど、彼にとっては常軌じょうきいっしているとしか思えなかったのだ。
「なんだあ、あいつ? 見えてるくせに契約者じゃねえってのか? いや、んなわけねえな。そんなのはいるわけねえ。こうやって少しのケガだけで生き延びるのがあいつのセオリーってことか」
 もう少し遊びたかったんだがな。
 不機嫌に、それでいて狙い通りにことが運んだことに若干じゃっかんの喜びを混ぜて言う。思った通りに事が運ばなくて痛い目を見るよりはマシだと思っていたからだ。
「さあて、狩り≠フ始まりだ」
 アウローに目配せして攻撃を止めさせる。
 アウローは戦うということに、契約している男と違って執着がないのか、それとも死神というのは全員が薄弱な意思しか持たないのか、ただ機械的であるだけなのか、分かりはしないがとにかく素直に従う。
「せいぜい上手に甚振いたぶられてくれよ? メインディッシュにするための下拵したごしらえなんだからよお」
 己の快楽に身をゆだねた犯罪者が歩み始める。
 その後ろに死の影を背負って。一歩、また一歩と。


「言えないわね」
「言えねえよな」
 二人、同時に溜め息を吐く。
 市内の病院で、真一と美浜の二人は沈鬱ちんうつな面持ちで一緒に待合室の席に座っていた。
 松原志枝への見舞いはすでに済ませてある。元々、この二人は彼女への見舞いが目的ではない。
 知り合いが二人、それも身近な人物が交通事故に遭ったり起こしたりして精神的に少々参っていたが、それに輪を掛けて嫌な事態が一つ起きていた。
「まさかあの野郎が轢かれた相手だとはな。畜生ちくしょう、どうせならもっと別な奴に轢かれろよ」
 不謹慎な悪態を吐き、真一は美浜に目をやる。一応言っておくと、彼女の木刀はちゃんと専用の入れ物にしまわれてある。さすがに木刀片手に見舞いをするほど馬鹿ではない。
「確認したはいいけど、状況は最悪ね。事故件数が多い上に人死にが出てないから警察も届けが出されない限り動かないけど、これであっちはこれを盾にしてこっちに干渉できるわね」
「ほんと、最悪だな」
 また、溜め息を吐く。
 周りはそんな二人を見て誰かが取り返しのつかない、またはそれに近い不幸にでも遭ったと勝手に取り、遠巻きに同情の目を向けている。
 もちろん、こんな様子の人間は二人以外にも一杯いたので、そういう人たちとまとめられて向けられた視線だった。
 そしてそれを感じて、二人はまた重く暗い気分に沈んでいくのだ。
 松原女史にねられたのは、有邨篠生ありむらしのいだった。
 全身打撲に骨折箇所が手足だけという、どう考えても自足百キロを超えていた車に撥ねられたとは思えない奇跡的な生還だった。
 命に別状もなく、意識を失っていただけでそれも三時間前には目覚めている。商売道具のカメラやボールペン、他にもあった携帯電話なども壊れて使えなくなっていたがホテルに置いておいたノートパソコンが無事だったので警察には届け出ないと言っていた。
 入院費も自腹で良いと言っていたが、その代わりに出る条件を考えると気分はどうしても悪くなる。
 幸いなのは本人がしばらく病院を動けないということ。手も使えないのであっちが出すであろう取材≠ヘ早くても一ヵ月後までなさそうだ。
「ま、あの二人への取引材料にしないようにできただけ、結果オーライといこうぜ。考えてもらちがあかねえし、俺たちで上手く切り抜ければ良いだけだ。ただ、問題なのはこれが透たちに知られることだな。あいつ、ぜってぇこれをネタに脅してくるだろうしな」
「うん……」
 珍しく言葉少なな美浜。どうやらだいぶ精神的に参っているようだ。
 これからのことを考えてか、透たちに隠し事をしなければならないことか、これまでの嫌な事件全部が重くし掛かってるのか、とにもかくにもきつそうである。
「行こうぜ。明日は遊びに行く約束、してただろ? そんな顔してたらダメだかんな。いっちょ、今から嫌なこと忘れに行こうぜ」
「そうね。うん……それがいいわね」
 まだ元気が戻ったわけではないが、笑顔を見せるだけの力は取り戻したようだ。
「おう、嫌なことはすっぱりさっぱりその時まで忘れてようぜ」
「そうと決まったら盛大にぱーっとやらないとね」
 悪戯いたずらを思い付いた思慮深き賢者のような顔をして美浜は言った。


 空に淡く光る月が見えた。
 透は息を切らして走りながら、どうしてそんなことに気が付くのだろうと思った。
 吹き出る汗は体をじっとりとらし、目には汗が入ろうと躍起やっきになって進軍してくる。絶えず掛けられる緊張が体力を想像以上に奪い、判断力をいでいく。
 ただただ強迫観念気味に走り続ける。
 無様だ。
 どこまでも、どうしても、どう見ても、無様でしかない。
「は、はは」
 笑いが込み上げて来る。ただそれは人には気管が詰まった程度のものにしか思えなかったが。
 透は体が訴える限界のシグナルを無視して動き続け、回らない頭のせいでどんどんと人気のない道へ道へと入って行った。
 それは、相手がそうなるよう誘導しているところもあったが――これは主にアウローによって――それでもこれは酷過ぎだった。
 透にそれなりのまともな意識が戻った時、そこはすでに使われなくなって久しい廃工場だった。
「ど、どこだここ」
 大きく肩で息をしながら、それでも後ろから迫ってくる恐怖に体を休ませることもできない。
「廃工場さ。五年ほど前に使われなくなった、な。地元の奴でも工場とかはどこにあるかってのはけっこう知らねえもんなんだよな」
 声を響かせて言ったのは、金茶の男だった。汗をほとんど掻かず、いつの間に現れたのか工場の入り口に立っていた。
「悪いな。俺はバイク使わせてもらったぜ。もっとも、追い掛けてたのはもっぱら俺の死神だけどよ」
 音立てねえように運転すんのがきつかったけどよ。
 そして、どこで調達したのか鉄パイプを肩に引っ下げていた。
「おう? こいつが気になるか? いやな、こいつでちょっとスイングの練習でもさせてもらおうと思ってな。もちろん、てめえの体で」
 ブルン、と大きく振って鳴らす男。とても野球をやっているようにもやっていたようにも見えない。
「安心しろよ。まだ殺しはしねえよ。なにせてめえはメインディッシュだからな。まずは逃げられねえよう下拵えをしてやるってだけだからよ」
 大きく体を震わせ、くつくつと暗い声を出す。
「にしてもてめえ、死神を使わねえってのはどういうことだ? それとも今まで一度も戦ったことがなくて怯えてんのか? 情けねえよなあ。そんな力持ってんのにただ逃げるだけってのはよ」
 あからさまに相手を下に見、そしてあざけりの言葉を投げ掛ける。
 挑発ではない。ただの揶揄やゆだ。
「ふん、これだけ言ってもだんまりか。……つまんねえな。やっぱ他の奴痛めつけてるところを見せねえとな」
「他の?」
 透が思わず訊き返す。それに気を良くしたのか、男はおうと言って頷いた。
「ああそうだ。てめえのせぇで殺し損ねた女とかを、てめえの前で甚振いたぶってやんのさ。泣いて助けを焦がれてるのを、おまえは何にもできずにながめて悔しがるのさ」
 そして与太話はこれで終わりだというように一歩、前に踏み出す。
 手にした鉄パイプを見せびらかすように振り回し、透がその顔を強張らせるのを見て楽しむ。まさに最低のやることだ。
「さってと、どこがいい? 手と足のどっちからだ? 頭は下手すると殺しちまうかもしれねえからパスな。胴体はつくばってからにしてやるよ」
 上へ下へと無駄に音を立てながら片手で鉄パイプを操り、体が硬直したようにその場を動かない透に質問する。
 その口調の端々に酔った様子が見え隠れし、これから自分のする一方的な結末に心をおどらせていた。
「そうらっ」
 鉄パイプの届く位置に入った時、男は掛け声を上げて鉄パイプを横薙ぎに放つ。
「くっ」
 慌てて後ろへ跳び退すさり、その一撃をなんとか回避する透。だが攻撃はそれで終わらなかった。
 今の後に、上から振り落とされ、次にはまた横に振るわれ、そして突きが出て透は胸を打たれた。
「へっ、逃げるのだけはマジで得意だな、おい」
「か、かはっ」
 突かれたことで一時的に呼吸に支障をきたし、胸を押さえてうづくまる透を見て男は唾を吐き捨てた。
「はん、この程度で気ぃ失うんじゃねえぞ。てめえのおかげでこうむった被害はまだまだ返してねえんだからよっ」
 そして尚も透を叩き続け、とりあえずまともに立てなくなるほどにいためたと思ったところでようやっと、その手を止めた。
「ちっ、そこで寝てやがれ」
 最後に一蹴り入れてから男は透に背を向けた。
「まずはどっちの女にするかだな。殺し損なった方か、運良く元から巻き込まれそうになかった方からか」
 その言葉に透は体を震わせたが、起き上がることはなかった。
 体の状態は判然とはしないが手足は折れていないだろう。焼きつけるような痛みと熱で意識をはんだく半濁させながら、透は今言われたのにがいとう該当する二人の顔を思い浮かべていた。
 男の言っていることは訳の分からないことが多く――特に殺し損なった云々うんぬんの辺りなどが――死神を使役できていることも驚きでとにかく何が何やらだった。
 それでも、男が危険な存在であることは確かで、友人が狙われていて特に明里と愛夏が危ないことを透は理解できていた。
 透はなけなしの勇気と力を振り絞って立ち上がろうとした。
 再びその体が蠕動ぜんどうする。まるでこれからが本番だというように。
 しかし、体は少し持ち上がったところで痛みがぶり返し、透はまたもやその場にくずおれてしまう。
「う、ああ」
 痛みにうめき、透は涙を流す。
 どうして立ち上がれないのか。体はただ痛むだけで、骨が折れてるわけでもないというのに。
「違う」
 透は否定した。
 立ち上がれない自分を否定した。
 立てないわけじゃない。
 自分はただ恐れているだけだ。
 立ち上がっても勝てるとはしれない相手に立ち向かうことを、恐れてるだけだ。
 この体の痛みに甘えて、立てないことの言い訳にしてるだけだ。
 透は今一度、立ち上がるために息を整えた。
 ただ、息を整えた。
 体から力を抜き、意識も少しだけ、薄ぼんやりとしたものに変えていく。
 そして、一気に立ち上がった。
 形振なりふり構わず、立ち上がることにだけ専念した。
 理不尽で不条理なこの出来事に、透は身の内に湧き上がる気持ちをエネルギーに代えて立ち上がった。
 身の内に湧き上がるそれが義憤と呼ばれるものなのかは分からない。
 一つ言えることがあるとすれば、それは許せないということだ。
 男の言葉から推測した想像に過ぎないが、男が殺人者であることは間違いない。
 事故に見せかけて、これまで一体何回人を殺したのだろう。
 透が知る限り、関わったのはどうもあの事故一つだけらしいが、それでも平気で人を殺せるのは疑う余地がない。
 立ち上がって、それからどうするのか。全く考えていなかった。
 こうして立ち上がったことで、様々な考えが頭の中に渦を巻いて現れてくる。
 何ができる? 何をすればいい? どうしたら男を止められる?
 一気に、堤防が決壊したダムから放たれた鉄砲水のようにとりとめもない思考と感情が押し寄せてくる。
「また、かよ」
 体がすくんで動けない。
 せっかく立ち上がったのに、せっかく体が動いたのに、それ以上できなかったら意味がないじゃないか。
「何を、すればいい?」
 違うだろ。
「どうすればいいか、考える?」
 ふざけるな。
 また、逃げるのか?
「また、何もできないかもしれないのに」
 数ヶ月前の飛行機事故の時のように、叫びを上げても無駄にしかならなかった。
 今度もまた、そうならないと言い切れるか?
「そんなこと、関係ないだろ」
 無策で向かってどうにかなるのか? なるわけないだろ。ここは何か道具を探して――。
「ふざけるな」
 語気を強めた最後の言葉だけが聞こえたのか、男はちょうど、現れた時と同じ出入り口のところで立ち止まった。
「あん?」
 振り返る。そして見た。透が立っているのを。
「なんだ、往生際の悪い」
 その先は続けなかった。
 鼻を鳴らしてせせら笑うそいつは、もう透のことなど眼中にないから。
「面倒なこと、増やすなよ」
 悪い子だなぁ、とでも言うように西日の差す扉から言ってくる。
「……おい、その目は何だよ」
 やっとまともに透の顔を見たそいつが、透の力強い眼光を見て怒る。
 ぶちのめした相手がそんな目をしていることなど男にとっては不快でしかなかった。
「何か言えよ!」
 透は何も言わず、反応せず、静かに顔に掛けられた眼鏡を外した。
 バキリ
 破壊音。それは、透の右手――破砕された眼鏡から発せられたものだった。
「気にし過ぎていたんだ。何もかもに」
 そう独白する透の顔は、清々すがすがしいの一言に尽きた。
「はあ?」
「細かいことにこだわり過ぎていたんだ」
 疑問の声を無視し、透は鋭く男を睨み付ける。
 自分はかっこいい人間ヒーローやナイトじゃない。武術をやっているわけでも、身体能力ちからに優れているわけでもない。ただの学生だ。
 当たり前のことで、だけど誰もが望む夢の形。
 どこかの話に聞いたような素晴らしい成果なんて、望むべくもない。
 多くの人間がとらわれる理想の願望に固執し過ぎていた。
 誰だって、かっこよくありたい。
 特に男であるなら。
 何を考えてるのかと思うだろう。
 でもこれは世界の誰もが持っているものだ。
 誰だって持ってるから、現実とのギャップに折り合いを着けようとして色々な理由を付けてできないことを肯定する。
 まさにさっきまでの自分がそうではないか。
 透は思い出していた。
 ほんの少し前に聞いた、騎士の物語。
 自分はその騎士とは違い最後までむく報われないピエロ道化だ。
 その上あの騎士以上に弱くて馬鹿で愚かだ。
 少なくともあの騎士は勇敢ゆうかんだった。一途だった。真っ直ぐだった。
 たとえ狂気に犯されたとしていても、あれほどに直走ひたはしることができるならそれはきっと素晴らしくうらやましいことなのだろう。
 人から話を聞いただけで間違いは大いにあるのかもしれないが、透は素直にそう思っていた。
 迷いがないといえば嘘になる。怖くないと言えば嘘になる。勝てると言えばそれも嘘になる。
 それでも透は一人の愚か者としてなら戦える。これは本当のことだ。
 かっこよくあることを捨て去れば、自ら愚か者になればこれほど体は軽い。
「なあ」
 落ち着いた、それでいてよく響く声で透は語り掛けた。
「ぶっとばしていいか?」
「――――っ、ははっ。頭おかしいのかてめえっ!」
 ガン、と鉄パイプを近くにあった物にぶつけ怒り狂う男。
 瞬間、透は走り出していた。
「ん、くぉのっ」
 余計な動作をしたせいで反応が遅れた。
 男は透のわきばら脇腹に一撃を入れると同時に殴られていた。
「がっ」
「うっ」
 ダメージは男の方が大きい。内側に入っていたことと、一瞬早く決まったパンチのおかげで威力が少しだけ小さかった。
「な、めてんじゃ……ねえぞおおぉっ!」
 だが、それまでに受けていたダメージの違いから、透にはもう素早い動きができなかった。
 やられる!
 そう思った時、
「たああぁぁぁぁっ!」
 二人のどちらでもない気合いが男を狙って放たれた。
 後ろにある夕日と相俟あいまって、透にはその一撃に残光がともなっているように見えた。
「くそっ、外したっ」
「大丈夫かっ、透!」
 そこに現れたのは、木刀を構えた美浜と汗だくになって近寄ってくる真一だった。


 空に赤く輝く太陽が見え、その反対の空には白い月が満ち足りぬとでも言うように小さな自己主張をしていた。
 真一と美浜は街の一角にあるちょっとした大きさのゲームセンターから出てきたところだった。
 大いに遊び尽くしたという顔をした美浜と、サイフの中身がすっからかんになって何ともやるせない顔になっている真一という組み合わせだ。
「いや、少しは遠慮しろよ」
 ぼろくそになったサイフをポケットにしまいながら、真一は溜息と共に呟いた。
「あんたが派手にいこうって言ったんでしょ。責任は自分にあるわよ」
「諸悪の根源が何を。いやいや、何も言ってませんよ?」
 完全に、王女と無理矢理に付き合わされた付き人といった風体である。
「あー、それにしても意外と面白かったわね。格ゲーって言ったっけ、あれ。相手ぼこぼこにしても怒られないなんて気持ち良かったわ、ほんと」
 美浜はここの格闘ゲームで、初めは初心者と同じくらいの動きしかできなかったが、わずか三十分ばかりで十連勝をかざるほどに強くなっていた。
 それによって辺りで沸き起こる軋轢あつれきを処理したのはもちろん真一だ。何も疲れているのはこづかいがなくなったばかりというわけではないのだ。
「にしてもよ、いいのか? あれ以外は一回やったきりだろ」
 普段より二割減の言い持ちで真一はたず訊ねる。
「いいのよ。他は今度来た時にでも、ね?」
「うわ。また来んのかよ。しかも俺の金で」
「当然っ♪ あんたは私の腰巾着こしぎんちゃくなんだから」
「なんか意味違う気がするぞ。もっとこう、別な場面で悪い意味で使うもんじゃなかったか?」
「そうなの? まあ別に良いじゃない。金のなる木に変わりはないんだから」
「……ごめん、俺友達止めて良い?」
「あははっ。本気にしないでよ。びっくりしたじゃない」
「お前が言うとしゃれになんねえんだよ。今日だって軽く一万近く使ったんだぞ」
「え、そんなに? あちゃー、今度からもうちょっと気をつけるね」
「まあいいけどよ。お前も元気になったみたいだし……」
「何か言った?」
「いんや、何も」
 両手を肩まで持ち上げて掌を上にし、首を振って言った。いわゆるどうしよーもねえなというポーズである。
「んじゃ、陽も落ちてきたところだしそろそろお開きにするか? 金もなくなったしよ。誰かさんのせいで」
「気にしないみたいなこと言っといてその言い草は何よ。……ま、そうね。今日はもう遅いし帰りましょ。今度お昼でもおごるからあんたもそんなすねてないでよ」
「はあ? すねてなんかねえよ」
 おかしな女、と真一は顔をそむ背けた。
「あ、あれ透のとこのネコじゃない? ポロって名前だよね」
 真一が顔を元の場所に戻す前に隣の美浜が言った。
「ん? ああ確かにそれっぽいな。真っ白な白猫だしよ。でも違うんじゃね? 透がよくぼやいてただろ、あいつ外に出てかねえって」
 真一は美浜の見ている先を見てそう答えた。
「そうだけどさ、全く外に出ないわけでもないでしょ。今日はたまたま外に出たい気分だったのかもしれないし」
 まあネコだしな。
 ネコだもんね。
 そう二人で頷いた。と、
「ねえ、なんかこっち見てる気しない?」
「確かに……ずっとこっち見て動かねえし。なんなんだ?」
 白猫は耳をピンと立てて二人を見つめている。雑踏の中、逃げもせず真一と美浜の進行方向で待っている。
 その距離およそ二十。二人は迷わず近付いた。
 逃げ出す様子も見せずに接近を許す白猫。しっぽが一度ぱたんと揺れる。
「ミニ〜」
 可愛い声を出して二人を迎える。思わずほおが緩んだ瞬間、白猫は二人の間を通り抜けて行った。
「あ」
「あーあ」
 美浜が残念そうに、真一はもう見えなくなっているだろうと諦めながら後ろを振り返った。
「えっ」
 ついそんな声がどちらともなく漏れてしまった。
 白猫はまだ二人の見える位置にいた。そしてまたこちらをじっと見ている。
 それから体をひるがえし、一度振り返ってしっぽをくねらせた。
「ついてこいってことかな」
「いやそんなおかしなことあるか? ネコが人を誘うって」
「ん〜、でも昔から猫又とか化け猫とかの伝承があるし、あながちないことはないんじゃないかな」
「んなもんかね」
 真一はメルヘンだかオカルトだかに夢を抱いている美浜に呆れ顔だ。
「そういうわけで、行きましょ。こういうのには付いて行くのが常識ってもんよ」
「へいへい、お嬢様」
 仕方ないというのがにじみ出るどころか垂れ流しているような様子の真一であった。
「どこまで行くのかな」
「さあな。でもここらに来たのなんて数えるほどだぜ」
 二人は白猫に導かれ、普段は来ることのない場所へと来ていた。
「あ、あそこ曲がると確か……」
「ああ。今朝事故のあったところに出るな」
 そして二人の予想通り、白猫はその道を曲がって行った。
 こうなるともう、何かあると考えるのは自然なことだった。
「嫌な予感がしてきたな」
「そうね。じゃあこれでも出しとく?」
「わっ、バカ。木刀なんて出すんじゃねえよ」
 やおらしまっていた木刀を取り出すと、美浜はにやりと笑みを作った。
「別にまだやばい事になるなんて決まったわけじゃねえし、そのやばい事だってどんなのか分かりゃしねえんだから」
「気構えってのは大事なの。それに落ち着くし」
「この暴力女め」
「言ってなさい」
 軽口を言い合いながら二人は白猫の後を追い続け、そのうちに完璧に見知らぬ土地へと出ていた。
「どこよここ。いつの間にかネコもいなくなってるし」
「工場跡だよ。ま、簡単に言えば潰れたりした工場がそのまま残ってる廃工場群ってとこか」
 真一が妙に物知り顔で美浜に教えると、美浜はそんなものかと適当に頷いた。その拍子に近くに置かれていたバイクが目に映る。
「あそこ、バイクあるけど」
「は? ほんとだ。ここらにゃ何にもねえはずだけどな」
 真一は人の手が入らなくなって久しい廃工場群を見回した。
 美浜がその怪しいバイクに近付き、まじまじと見つめて調べている。
 真一がもう一度目をやった時にはすでにべたべたとバイクのあちこちを触ったりしていた。
「だっ、何勝手にしてんだよ」
「別に。すっごく怪しいから念の為に調べてるんじゃん」
「それで? 何か分かったのかよ」
「ええ、分かったわよ」
「マジかよ」
 真一は苦笑いをして美浜に嘘だよな、とシグナルを送る。
「見たところ、これに乗ってるのは派手好きね」
「いやそりゃな。うん」
 バイクには明らかに改造がほどこ施してあり、見た目もチューンナップされていた。具体的に言うと、基本は鈍く光る赤。はっきり言って趣味が良いとは言えない。なにせ目に毒だと言いたくなるようなほど酷い色合いなのだから。
「他にはねー……」
 美浜がもったいぶって焦らすようにこちらを見てにやにやしていた。
「他には?」
 しゃーねーなーと心の内で独りごち、それなりに――どう見ても嫌々に――興味と期待の入り混じった顔で訊いた。
「ずばりっ」
 ビッ、と美浜が得意気に指を立てた瞬間。
「何か音しなかったか?」
 全てを台無しにする一言を真一はぶつけた。
 それはさきほど、バイクを調べ初めて少ししてから気付いた物だった。ぎりぎり耳に入る程度の音で、それまでは特に気にするようなものではなかった。真一は話の区切りとちょっとした意地悪を兼ねて今更のように言ったのだ。このタイミングで。
「ねえ、真一……」
「おい、早く行こうぜ。ちっとやばい声がしたぜ」
 考えたとおり、美浜はぴくぴくと額に青筋を立てていたが、今はそれに付き合ってやる暇はない。今度は本当に聞こえたのだ。どこか切れてしまったような声を。
「真一?」
 美浜も真一の様子に周囲の気配を探った。
「……………………っ!」
 美浜はここから程近い、ある一つの工場へと目を向けた。
「あっちよ!」
 言うと同時、走り出す美浜。
 真一もそれに付いて行ったが、如何いかんせん、日々の努力の違いによってあっという間に引き離されていった。美浜も普段なら気に掛けるのだが、そんなことに気を遣えないほどに切迫した状況だ。
 何があるか分かったものではない。ここは全力で行くのが望ましい。
 真一もできる限りの速さで後を追い、美浜が向かう先に見当を付けた。
 それは一つの廃工場だった。
 金と茶の二色に髪を染めた危なそうな男と、明らかに男に殴られたりした形跡を持つ透の姿が目に入るのに、そう時間は掛からなかった。







あらすじ エピソード0 プロローグ 第一章 第二章 第三章 第四章 エピローグ エピソード0 あとがき