空が満ちる時



あらすじ エピソード0 プロローグ 第一章 第二章 第三章 第四章 エピローグ エピソード0 あとがき

第二章 〜隣り合わせの死〜


「透?」
 愛夏が目の前、いや真上にいる。
「何で、いるんだ?」
「いちゃだめ?」
「いや、そうじゃなくて。先にもっとこう、するべききことがあるんじゃないかな」
 愛らしく首をかし傾げる愛夏を後目しりめに――物理的に不可能とかそんなことはない――透は体をベッドから起こす。枕元に置いていた眼鏡には手を出さず、そのままにしておく。
「ノックとか。大声を出すとか」
「ノックは良いとしても、声を出すのはあまり好きじゃないな」
「そうか。じゃあ次からはちゃんとノックをしてくれ」
「えーっ。それって部屋に入るなってこと?」
「えーも何も、普通はそうだろ。こっちが鍵を掛けられないからって好き勝手に出入りするなっ」
 そんなに怒んなくてもー、と愛夏は言うが、透にはたま堪ったもんじゃない。
 別にやばい物など元から存在していないし、これからも存在させる気はない。だが自分の部屋に自分以外の誰かが出入りするのは生理的に相手が誰であっても嫌だった。潔癖とも言う。少しニュアンスは違うが。
「とりあえず、着替えるから」
 そう言って追い払う仕草をすると、愛夏は渋々ながらも部屋を出て行き、階下へと降りて行く足音が聞こえた。
「はあ、問題だな」
 ここ一月ほどで形成された日常。初めは、目覚ましが壊れて遅刻すると愛夏が朝に透の部屋に慌てて入って来たことからだった。
 それから少しずつ愛夏が朝、部屋に来ることが多くなり、次第にこうやって許可なく他人の部屋に侵入してくるようになった。
 幸い、変なことに気を回したりはしないのでまだ愛夏の悲鳴はこの部屋から発信されてはいない。
「気を紛らわすために始めたんだったか」
 透の知る記憶を失う前の愛夏は、こんな異性を気にしていないかのような行動は取らなかった。もし取らなかったのなら透はあんな目に合わずに済んだのかもしれないが。結果は変わらなかったとしても。
「これでいいか」
 シックなパジャマ姿から高校の制服へと着替えた透はネクタイが曲がっていないかを確めて言った。
「もうちょっとこっちにしないと……はい、できた」
 横合いから伸びてきた手がネクタイの状態を修正した。ご丁寧に体ごと向き直されて。
 ギクリとした透が見たものは、再び部屋への侵入を成功させた愛夏だった。
「愛夏っ」
「あはは。早くしないからこうなるんだよ」
 透が捕まえようと伸ばした手はむなしく空を切る。すぐさま部屋を出た愛夏が階段の途中まで降りるバタバタとした音が聞こえた。
「ほら、早く降りてきてよ。昨日みたいにポロのご飯忘れちゃうよ!」
 さらりと昨日の失態で突いてくる辺りがなんとも……。何も言い返せず歯向かう気力すら失って、透は力なく階段を降りた。
 家族が朝食を取っている場所の扉を開けると、ポロがそれまで伏せていた体を起こして近付いてきた。
「ほら、ポロ、飯だぞ」
 テーブルの上に置いてあったキャットフードの箱を足元に置かれていたポロ用の皿を手に取って傾ける。
 ばらばらざらざらと音を立てて皿に盛られていくキャットフード。もちろん、すでに自分で食してみて悪くない味だったやつだ。
 キャットフードやドッグフードは実は人間でも食べられる。というか食べられなければダメだ。人体に有毒なのは同じ哺乳類である猫や犬にも有毒だということなのだから。一部に例外はあるが。
「ったく、いつもこうやって自分から来てくれれば昨日みたいなことにはならないのに」
 ふとこぼれたぐち愚痴はきっちりと愛夏の耳に入ってしまった。
「透、菜由子さんに言っても良い? 透が動物虐待したって」
「ぎゃ、虐待って。おい、誰もそんなことしてないだろ」
「ふうん、……自分がした失敗をポロのせいにしてさ。それなのに透がそんなこと言ったら虐待としか言いようがないじゃない」
「どんな理論だ、それは」
 少なくとも、虐待には入らないと思う。言って良いことかどうかはさておいて。ちょっと愚痴っただけじゃないか。
 脱力の上に憂鬱がプラスされるという中々に稀有レアな体験をした透が緩慢かんまんな動作で朝食の席に着く。
「母さんは今日、夕食いらないって言ってたっけ」
「うん。菜由子さん、夜に飲み会があるんだって。帰ってくるのは二時くらいになるみたい」
 すでに点けられていたテレビに目をやりながら透が訊くと、愛夏もテレビの方に意識を向けて言った。
 テレビには地元のニュースが流れていた。昨日の夕方に起こった事故以外にも、新たに二件の事故が起こったという話だった。
 こと、ここに来てようやくテレビでも局地的な事故件数の多さに気が付いたようだった。いや、それは正確なことではないのだろう。前々から気付いていなければ今年に入ってからの事故が一体どれだけあったかなどすらすらとニュースキャスターが述べられるはずもなく、何人が死んで何人が怪我したかなど一桁まで表せるはずもない。
 つまりは、話題性に欠けていたということだ。今までは。それとも話をまとめていただけなのか。
「真一の言ったこと、本当だったな」
「そうみたい。でも、これだと全国的に事件事故が増えてるみたい。ほら、首都圏から離れるほど色が赤くなってる」
 テレビには日本の地図が映し出され、そこに事件事故の件数で色分けされていた。
「でも結局は北海道や九州にある程度向かったところで色が戻ってきてるから、はっきりと首都から離れるほど危険なわけじゃないみたいだ」
「ここは赤だけどね」
「皮肉か?」
「ううん。そうじゃなくて、もしかしたらまた昨日みたいなことがあるかもって」
「あ……」
 馬鹿だ。僕は馬鹿だ。愛夏は心配していたというのに。これだけ起こっていて、すでに愛夏は二度目にあっていて、だから気を付けなくちゃいけなかったのに。
「いや、大丈夫だろ。増えてるって言っても、またあんな目に皆があうことはそうそうないだろ。昨日は運がなかっただけで」
「うん……そうだよね」
 愛夏は無理にでも納得しているように見えた。
 でも、自分でも分かっていた。
 自分の言ったことが気休めでしかないことを。
 次に事故が起こった時、また助かるという保証がないことを。
 そして気付くべきだった。
 こんな美味しい話を奴らが見逃すはずがないことを。


 車の駆動音がすぐ脇を通り抜ける。昇った太陽の日差しが体に降り掛かる。ピンポイントで頭部に集中している気がするのはただの思い込みか。
「んでよ〜、何で俺がおまえらと一緒に登校することになってんの? 作戦会議を登校途中にするって言ってたっけ?」
 久那真一は頭を掻きながらめんどうくさ面倒臭そうに金藤美浜へと質問する。美浜の陰に隠れているように見えなくもない草永海明里はすまなそうな顔をしている。
「言ってないわよ。今朝、というより昨日の夜に思い付いたんだから」
「誰が、何を?」
「私が、お礼作戦を」
「お礼作戦? なんだそれ」
 まりのない顔に胡乱気うろんげな雰囲気が追加される。こいつだめだわ、という気持ちがありありと表に出ていた。
「そう、お礼作戦。明里が昨日助けてもらったお礼にお弁当を――」
「却下」
「え? 何でよ」
「いや、ほんともう目に見えてそれは駄目だから。やばいって。泥沼になっから」
 真一の口振りに怒りを積もらせていく美浜の顔を、真一は見ていなかった。自分の言っていることに集中していたからだ。仕舞しまいには一人でうんうんと頷いてさえいた。ただし、明里には微妙に聞こえないようにして。
「明里ちゃんが弁当なんて作れば絶対に、今の彼女は対抗してくるね。なにせ彼女にとって透の奴はただの幼馴染み、じゃなく大切な家族、だからな。取られまいと必死になるだろうよ。それが恋心なのかどうかは別として」
 だからこれは却下。透の奴を困らせるだけだぜ。
 真一はそこでようやく顔を上げ、固まった。
「そう、つまりは私の案は短絡的で粗野で無駄で無意味どころか事態を悪化させるだけだと言うわけね」
 普段と変わらないような口調から、抑揚よくようだけが取れた喋り方。そのことから美浜という一女子の彼女が持つ怒りは分かるだろう。明里はもはやとっくに諦めており、事態を静観している。逃げ出さないだけましと言えよう。
 それほど怒ることはないんじゃないか、ということを言ってはいけない。最高だと思っていた策が愚策だと正面切って言われれば、誰だってい 好い気はしないだろう。それが普段からお前は女らしくないと言っている相手から言われれば、彼女の感情は押して知るべしだ。
「ねえ、実はもう明里は弁当作ってきちゃってんのよ。私とあんたがやるのはね、愛夏を透から引き離すことだったのよ」
 じりじりと真一へと顔を近付けていく美浜。真一は顔を強張こわばらせたままの状態でじっとしている。
「それで、さ」
 一呼吸置いてから美浜はくわっ、と目を見開いて訊いた。
「協力、するわよね」
 真一がそれでぶんぶんと音が出そうなくらいに首を縦に振っても仕方のないことだろう。
 気の早いセミがどこか遠くで鳴き始めるのを聞いた。
 ご愁傷様。真一君。


 昼休みを告げる時報が耳に痛い。
 ありきたりなベルの音だが、ここまで大きな音にしているのはこの学校くらいなものだろう。
 がやがやとグループで弁当を広げる者、購買部で早めに買っておいたパンを頬張ほおばる者、二つある食事処のどちらかを使いに動く者、別なクラスに行く者、実に様々である。
 そんな中、普段と違う光景が一つのクラスで起ころうとしていた。
 いつもなら女子三人が透を誘い、透が更に真一を誘うという一種独特な食事スタイルを展開していたのだが、今日は早々と真一が美浜に声を掛け、美浜が愛夏を連れて――引っ張って――教室を出て行く。
 真一がジェスチャーをしてお前らだけで食っとけ、とアピールする姿が教室を出る時目に入った。
 透は残されたもう一人、草永海明里へと目を移した。
 びくっ、と体が跳ね上がってるのではないかと思うほどに反応する彼女を、透は先程の美浜と真一の行動をかんがみて裏がありそうだと思った。
 おそらくは愛夏に何かを吹き込んだりするのだろう。それとも四人はグルで何か自分に対して計画を練ってるのかもしれない。ドッキリは勘弁して欲しいが。
 だから、きっと目の前に出てきた代物も、その小道具の一つなのだろう。これでこちらの気を逸らせる作戦に違いない。
「弁当?」
 指を差して訊くほどのことでもなかったろうに、あまりなことにとりあえず、で対処しようと脳が無理をした結果だった。
「はい。……迷惑、でした?」
「いや、その。迷惑では、ない。ちょっと、驚いただけ」
 真一め。あいつだ。きっとあいつがこうするように言ったんだ。あいつならこっちがフリーズするような手を幾らでも考え付くだろう。それにしても、弁当か。フリーズじゃなくエラーが起こったぞ。
 脳内の思考がいつもより乱雑になっている他は正常だった。まともな人間としての反応は。
「行こうか」
 取った行動はやはり安全策。
 このままじっとしているわけにもいかず、かといって相手の申し出を断るわけにもいかない。
「どこが良いかな」
 この場所で食べることは論外。周りの好奇の視線が早くも集まり始めている。
 マスコミやら何やらでその手のことに嫌悪とまではいかないものの、できるだけ向けられたくない部類に入る。自分だけでなく周囲の人間にも。
「お、屋上はどうですか」
「屋上? 鍵が掛かってたと思うけど」
「今は開いているそうです」
「そうなんだ」
 安全性の問題から屋上の開放はもうされていないはずだったが、鍵を壊すなどすればあっさりと入れるものなのは誰でも知っている。実行するかどうかは別だが。
 真一の奴がしたのかそれとも別な誰かが壊したのに便乗したのか。
 いずれにせよ、普段は行けない屋上に行くことができるというのは魅力的な提案だった。 自分の少し前をトコトコと歩く彼女に付いて歩きながら透は一つ上の階へと昇って行く。途中、集団移動をしている女子や男子たちと擦れ違いながら屋上へと向かう。
 がやがやとした騒がしさはあと数分もすれば一段落だろう。周囲の喧騒けんそうはそこらを移動している生徒たちがかもし出している物なのだから。
 屋上の扉が開かれると中天にまで届いた太陽の光がまぶしく目に入ってきた。少しだけ流れる風を感じ、その風が涼風りょうふうであったことに感謝する。
 天気は昨日と同じく晴れ。けれども昨日よりはさっぱりした大気だ。昨日の風はじっとりとしていたから。
「わ――――ぁ」
 滅多に見られない屋上という風景に感動した声がじだ耳朶に届いた。
「こんなに、なってたんだ」
 素直な、そして率直な気持ちが言葉となって出ているのが分かった。自分もそうだったからだ。言葉にしたかしなかったかの違いだけで。
 一言で言ってしまえば、屋上という環境に抱いていた幻想よりも上の情景だった。
 緑のフェンスの先は当たり前だが学校の敷地。けれどもそこから見えるのは一枚一枚の葉がきらめく芸術的な並びの樹木と、それに合わせたようにしか思えない建物の並び。
 人工物は自然と合わないなどという一般論が戯言ざれごとにしか聞こえないほどの、完成度の高い『作品』だった。
「どうだい? 気に入ったかな」
 知らない誰かの声がした。
 いつの間にか数歩前へと踏み出していたことにも同時に気付き、二人に気恥ずかしさが込み上げてくる。
「この配置は私が設計したんだ。建物だけじゃなく、木もね」
 どこか独特のリズムと声音で淡々と告げる人物は、扉の横で壁を支えにして立っていた。
「ハジメマシテ、かね。名前くらいは聞いたことがあるだろ? 学食の松原、と言えば私しか指さないからさ」
 白衣の天使、などと形容されることもある女性の医療師でありながら全く以てそうは見えない。他の何に形容されることもなく、見た目通りの校医としか言いようがない。
 それはシナモンスティックを口にくわえているからか、それともぞんざいで踏ん反り返っているように見える態度だからか。最終的な判断は人それぞれだろう。
 彼女は口に物を咥えたまま器用に喋る。異物を気にしている様子が全くない。
「うーん、真一の奴が推しただけあってやっぱり良い。まあ、会ったばかりだしね。及第点に留めておこう」
 不躾ぶしつけな視線と口調、それから不敵な態度にすっかり唖然とした透と明里は何かを言う気にもなれなかった。
 好奇の視線よりも不快なようで、それでいてこれが当たり前と取れるような不思議な感覚を生み出す松原女史。彼女は鼻に引っ掛けた丸眼鏡からこちらを猛禽類のような目で見ている。
 透と違って伊達ではないようだが、わざわざ丸いのにしたのはその印象を和らげるためか。それはまずまずの成果を上げていると言えよう。
「それじゃあ、私はこれで。さすがに二日連続ということはないだろうけど、もしもの時のためにあそこにいないとね。そのうちゆっくりと話でもしよう」
 化粧という物をしたことがないと思われる顔を親しげに緩めて彼女は去った。あっさりしているようでもあり、また会うことが決まっているから余裕なのか。
 結局のところそんなことは今は分からないのだし、気にしても仕様のないことだ。なにせ真一と気が合う相手のようだから。
「えっと、草永海さん」
「あの、お昼にしましょう」
 透がぼやぼやとしているうちに、どこから出た行動力なのか明里がにっこりと笑って言った。
 透は明里の後ろに付き従って近くのフェンスまで歩った。
 手際良く弁当を取り出した彼女は二つあるうちの片方を透へと差し出した。
 その後は透の方はあまりよく覚えていなかった。
 普段とは違う雰囲気で食事を共にしたことと、ずっと二人で色々と話していたということは記憶に残っている。何を話して何を食べたのかは残っていない代わりに。
 チュンチュンと鳴く小鳥がそばを通り過ぎれば良いのにと透は教室に戻って授業を受けている時に思ったのは、哀愁漂あいしゅうただよう心がさせたものなのか。


「松原さんとはどうやって知り会ったんだ?」
 放課後、今日は部活が休みということで五人全員で帰路に着くことができた。
 その時、透は真一にあの保健医の先生について訊こうとしていた。
「ああ、あの人ね。おう、今日あそこを開けてくれたのはあの人だからな。無理言って開けてもらったんだよ。ぜってー物の分かった奴らだからってよ」
 あそこが閉められてんのはそういう奴にしか見て欲しくねえからだってよ。
 真一がそう言ったことには驚いた。安全性の問題や世論でそうなっていたわけではないのか。
 そんな風なことを訊くと真一は、はあ? という顔をした。美浜までもが嘘でしょ、という顔をしていた。
「この学校でそんなジョウシキ、通ると思ってんのか? 皆丸めてゴミ箱ごと焼却してるぜ」
 そんな婉曲えんきょくな表現を使うほどのことか。
 透は唇を心なしとがらせる思いだったが誰もそれには気付きはしなかった。
 真一がまた珍妙なことを言ったからだ。
「俺に婚約者がいるって言っただろ? その親類だよ、あの人は。話すようになったのは今年に入ってからだけどよ」
「は? まだ言ってんのあんたは。いい加減にしなさいよね。彼女いないからって痛い妄想してんじゃないわよ」
 美浜は腕を組んで真一をにら睨んだ。ふざけてんじゃないわよ、的な雰囲気がありありと出ている。
「おまえら……」
 信じて。
 目をウルウルしたって誰も真一を信じないものは信じない。
 むしろ逆効果だ。特に透と美浜には。
 ごす、べきっ。
 透の鉄槌てっついが頭を下げさせ美浜の払った腕がちょうど良く真一を地面に叩きつかせた。二つ目の音は主にこれだ。
「ぐわっ、が。て、手加減しろよ」
「したさ。……僕はね」
「もちろん、あたしもね」
 もちろん、真一を見下ろす顔はそんなことを正直に信じさせる力はなかった。
「くそ。明里ちゃんと香則ちゃんだけだぜ優しいのはよお」
 ふらふらと二人に近付く真一。だがお約束として彼は二人には辿り着けない。
「あうっ」
 いつも通り、美浜のカバンがポコリと当たったからだ。今度はちゃんと手加減されている。
 そうこうしてふざけてる間に真一との別れ道にまで来た。
「ま、昨日の今日でないとは思うがその、気を付けろよ」
 真一の、どこか遠慮がちで心配そうな顔がそっぽを向く。
「ああ、気を付けるさ。あんなのはもうごめんだからね」
 まったく、なんて顔をしてるんだ。見てるこっちが気を遣うじゃないか。
「ああ君たち。山崎透クンに香則愛夏サンだっけ? ちょっといいかな。いいよね。うんこっちに来てくれないか」
 ふてぶてしい声。大抵の人は剣呑けんのんにならざるを得ない声音こわねだった。
 風体ふうていは、見たままの記者だった。咥えタバコからは煙がくすぶり、両手はポケットに入っている。肩からげた中位のバッグが腰の辺りで揺れていた。
 ばさばさとした髪に無精髭ぶしょうひげが口元をおおい、粗野な印象を見る人に与えた。目付きはこの上なく――ハイエナだ。
 半分だけ意識して、この記者と友人たちとの間に立つ。視線は可能なら相手を焼き殺すほどに力を込めて。
「いやあ、まさかまた取材することになるなんて思いもしなかったねえ。いやはや、これも縁というものかな。まあ、君と彼女の縁は宜しくないようだけどねえ」
 笑っていなかった。目も口も、どこを探してもあざけってしかいない。どこまでも、相手をむさぼり食うことしか考えていない者の目だった。
 友好的な笑みを浮かべているようでその実、狡猾こうかつな罠にどうやってめるかを楽しんでいる口。
 透が最も嫌いな記者の一人だった。
 記者というだけで気分の悪くなる透だったが、心底嫌っているのは多くない。所詮しょせん、群がる記者は鬱陶うっとうしく邪魔なだけ。耐えればそれで済むという程度だ。実際はとてもきつかったが。それでも、ましだ。
 だがこいつは違う。その言葉で、その筆で、その行動で、そのコネで、まずは取材対象を取材の段階でおとしめる。
 傷口をえぐるのではない。掻き乱すのでもない。ただただ切り刻むだ。ありとあらゆる方法で。
「大変でさーなあ。こんなに事故が続いてねーえ? いやいや、お嬢さんのことを疫病神とか言ってるわけじゃないんだけどねえ」
 嫌な声だ。語尾は尻上がりになりそうなのにそうならない言葉がこれほど神経を逆なでするなんて。それに言っていることもしゃく癪に障る。誰が疫病神だって? ふざけるな。お前の方がそうだろうに。
 不機嫌を通り越して敵意をばら撒いていることを自覚しながら、透はできるだけ無感情に言葉を募らせる。
「その節はどうも。ですが、今は友人たちとの団欒だんらんを楽しんでいる途中ですので、どうぞお引き取りください。それと来るのならせめて一ヶ月以上前に連絡してほしいですね。こちらも色々と準備がありますので」
 後で真一と美浜が皮肉と嫌味しか入ってなかったとめてきたが、嬉しくない。可能な限り接点は潰したかった。できることならこの記憶でさえも消してしまいたい。
「はいねー、嫌われたもんだね。また後で来るから。そんときこそはよろしく願うからねえ?」
 最初にどこかの方言のようで、どこの方言でもない無茶な口振りとおかしな抑揚よくようで言ってくる。ただ相手をけなすことだけのために生まれた言葉遣いだ。
 今日のところは接触だけが目当てだったようで、ただ自分がここにいるということを示しただけに過ぎない。必要とあらば暴漢を雇いもする奴だ。それを考えれば今日は考えられないほど穏便に済んだと言っていい。
「ちっ、透ちゃんにしか言わせねーでやんの」
「っとに気に入らないわね。あれでまだましだってんだから、始末に置けないわ」
 大また歩きの、それでいて恐ろしく早い移動速度でこちらから離れて行く最悪な記者を見て真一と美浜が怒りをらす。
「気にしなくていい。こっちで何とかするから」
 皆の安全を考えて言ったことだったが、どうやら不況を買ってしまったらしい。
「ざけんな」
「殴って良い?」
「そんな……」
 明里を含めた三人の抗議が耳に痛い。そのうちの二人は人の頭を殴るものだから頭まで痛い。
「勝手に一人で片付けるな。こっちゃ色々と画策してやってんだからよ」
 どこから見てもお前で遊んでやるといった顔で真一が体を密着させて言う。
 何を巡らしているのかは訊かなかった。訊いても答えないだろうから。それに、訊くのは何となく野暮やぼだと思ったのもある。
 果てしなく嫌な予感があったというのが最大の理由だが。
「んじゃな」
 そう言って素っ気無く、でもどこか名残惜しげな形で別れる真一。もともとここは真一との別れポイントなのだ。これは必然だ。
 本格的な夏も近いこの時期、陽はまだまだ落ちる様子はない。明るい陽の元でさよならを言うのは、どこか変な気がした。
 この時はまだ平和だったのだ。あんなことがあっても大事には至らなかったし、仲間たちとわいわい騒ぐことができた。
 それが崩れていくのはそう遠くないことで。すでに一歩後ろまでなくなっていたのに気付かなかったのは気付きたくなかったからだ。
 始まりはあれで、迫ってきたのはこれで、牙をくのはそれだったというのに。
 危険を知らせる欠片は見ていたのに、それをわくに嵌めなかったのは自分だ。それだけはどうしたって誰のせいじゃない。完璧なまでに自分のせいだった。
 もし謝れるのなら、今この時に戻って謝りたい。本当に、すまないと。


絢爛たる災禍の聖祭ゴルゲオウスイービルライツ=B通称、聖祭」
 誰に語るでもなく、静かに、けれどもつぶさに、メロディを奏でるように流れるその声。
 閑散かんさんとした郊外のどこか。登校時や通勤時には人が多いのかもしれないが、それも表通りから外れたここにば意味はない。そうそう人がここに来ることはない。
参加者アテンダンス≠ニ呼ばれるこの聖祭の主役たちは、本来なら見えるはずのない物が見える」
 それが死神という存在。
 そしてそれは静謐せいひつな空気をまとっていた。この時までは。
 夕日が地平線へと堕ちる数瞬前。たそがれ黄昏の時。世界が光から闇へと変わる瞬間。
 冷たい光が暖かい闇を作り出す・・・・・・・・・・・・・・
「事象の反転と曲解をする死神=Bそれが私の契約死神」
 口に咥えたシナモンスティックを利き手である右手で取る。まだ口にしてそれほど時間の経っていないそれを、だらりと腕をらす途中で握りつぶす。手の間からは折れた残骸が見えた。
 服装は学校での姿と変わらない。変わったのはその雰囲気だけだ。
「見付けたよ。ここ最近の事件事故は、そちらさんがやったんでしょ? ねえ。……何とか言いなさい」
 あふれ出る感情の波。それは正確に相手へと叩き付けられた。
「うちの生徒にまで手を出してさあ。分かってんの? 力手に入れて有頂天になる馬鹿に教え子の命散らす資格なんてないんだよ」
 ただでさえ鋭い目が、今は獲物を狩る寸前のように恐ろしい。
「何正義面してんの? 三十過ぎのおばさんが。怖気おぞけの走ること言ううんじゃねえっつの。あれか? ワタシハエラインデスってこと言いたいってやつ」
 それを感じないのか、あなどっているのか、言われた金と茶の二色に染めた髪の男がけらけらと哄笑こうしょうする。
 腰に下げたメタリックシルバーのチェーンがかちゃかちゃと鳴る。
 その横に、静かに付き従う影がある。
「なあアウロー。確か聖祭ってのはこういう奴全員を消せば勝ちなんだよなあ。ならよう、ここらでちょいと俺らの実力を世間に知らしめてみようじゃねえか。今までみたいなまね真似っこは止めてな」
 身長は七十センチほど。身にまとう服はぶわりと広がった見たこともない物。手に持つのは定番の鎌。体の大きさに合わせてはあるがそれでも大きい。
 極め付けはその顔。明らかに人のそれではない顔は、よくある骸骨がいこつ姿でなかったのが幸いか。
 まるで厚化粧をしてできたピエロに似た、けれどピエロのような見る者に緩みを与える仕上がりではない。こちらを見る目は細い。子供のようないでたちのクセに、空に浮いているという一点がその印象を吹き飛ばす。
「はっ、そっちは出さなくて良いのかよ。そんな毛ほどの力だけしか出さなくて、この俺に勝てるとでも思ってんのかよ! 行け。アウロー!」
 号令と共に突撃を仕掛けるアウローと呼ばれた死神。
「肉弾戦主体か。こういうのは上手く扱えばかなり曲者くせものなんだけど、ね」
 松原の顔は冷たい。けれどそこに笑みを浮かべて余裕を表す。
「デルイ。仕留めろ」
 松原が口を開いた、その瞬間。
 空間が裂ける。
 そしてそれごと斬られたのは死神アウロー。かすり傷だが痛手ではある。
「ちっ」
 腕を斬られたアウローを一時退避たいひさせ、金茶の男は毒吐く。
「もう一度だ。ち殺せ!」
「実力の差が分からないなんてね。思ったより呆気ないね。まあそれで良いんだけどさ」
 空気が収束していく。それまで拡散かくさんしていた空気が、デルイの能力で圧縮あっしゅくされる。
 大気はその性質上、常に存在量を平均値にしようとする。そのため空気はあちこちへと動き広がっていく。デルイはそのことわりを逆にしたのだ。
 一箇所に集まった空気は厚い壁にも鈍器にもなる。敵の死神はそれに弾き飛ばされた。
 そして大気の移動により風もまたその場に起こる。
 希薄になった空気の穴を埋めようと、更に離れた周りから風が流れて来る。その勢いはどんどんと強まり、遂には暴風となって辺りを襲う。
「この程度のことで終わるのよ。あんたはそのぐらいの力しか持ってないってわけ。分かった?」
 冷たく言い放つ彼女の周りだけが風の影響を受けずに残っている。吹き荒れた風を先に集めた空気でもって相殺したのだ。これにはかなりの技巧が必要だろう。
「く……」
 飛び散った何かの破片や石が体中に当たり、また自身も吹き飛ばされて衝撃を受けていた相手は、体を動かすのもやっとだ。一番酷いのは彼の死神が斬られた所と同じ部分だ。一番大きな傷ができている。
「は、ははっ。見せたな。俺に、死神を見せたな!」
 狂ったような笑いを見せるそいつの目は、まさしく狂喜に染まっていた。
 松原のかたわらには先程までなかった死神デルイの姿がある。デルイは最初の一撃を喰らわすために周囲にひそんでいただけで、決して姿を隠す能力を使っているわけではなかった。
 デルイはアウローとは違い、宙に浮いていない。見た目は小柄な少年といったところだ。服装に似通った部分はあるが顔も違う。人外ということは分かるがそれだけだ。デルイの周囲は他よりも暗くそれ以上は分からない。
「俺の死神はーっ!」
 ふらふらとしながらもいつの間にか立ち上がっていた相手の、振りしぼった声にアウローが呼応こおうする。
「死神を殺せる≠だよーっ!」
「なっ」
 油断していた。それはいなめない。それほどまでに相手は弱く、実際今使った力はウォーミングアップにもならない。だからこそ、普段以上に驚いてしまった。それでも間に合うと思っていたからだ。
 だがアウローはこれまでで一番早くその体を動かし、疾風のようにデルイへと肉薄していた。
「デルイッ」
 叫ぶ。
 間に合えと。
 だがデルイは間に合わなかった。
 肩から袈裟懸けさがけにばっさりと斬られ、人間のように血は出ないもののそれが深手だということがまざまざと、切り口からうかがえた。
「こ……のっ」
 松原自身には何の傷もない。だが自分の契約死神が傷付くということは、自分自身にもその傷が何らかの形でフィードバックされるのだ。ただし、それは死神と契約している者だけの間に発生するルールだったが。
 それが、死なないはずの死神の死ともなれば、どんなことになるかは自明の理というものだ。おそらくは他の死神より与えられる傷の量も多いことだろう。
 松原は倒れ行く死神デルイを掴み、この場から走って逃げた。デルイの意識はまだあったが、失われるのにそう時間はかかりそうになかった。
 後ろを振り返る間も惜しんで逃げる。相手の追う気配がないのは契約者がその場を動けないからだろう。
 基本的に死神は、つ 憑いている人から遠く離れることはできない。個体差はあるが松原の知る限り最大で百メートルほど。平均では二十メートルの範囲だ。
 ただ、頭の片隅かたすみにでも入れておかなければならないのはそれが契約者による命令を履行りこうする範囲、ということだ。死神が命令を聞かずに動くのならかなり離れることもできる。デルイもたまに松原から離れて勝手に行動することがあるし、その時に狙われたら一溜まりもないだろう。
 だからできるだけ死神が近くにいる時に戦いを仕掛け、死神が近くにいない時は上手く隠れるのが必要になってくる。隠れると言っても相手に自分が死神と契約していることを悟らせないようにするだけだが。
「助かった……。死神が、本来は憑いた人以外の命を奪わない存在で助かったな」
 松原が呟く。
 デルイはすでに意識を失って存在を霧散むさんさせている。最後の最後に契約者を守るために力を使ったのだろう。デルイから自分に来るはずの怪我が軽い。
 松原はどこかから飛んできたナイフでデルイと同じような場所をすっぱりと切っている。おかげで傷付けたくないような箇所まで傷を負っているが、この分なら病院の厄介にはならなくて良いだろう。傷の場所も、これなら上に来ている服で十分に隠せる。
「まったく、女の柔肌やわはだによくも傷を付けてくれたわね。デルイが回復したらすぐにでも殺してやるとするか」
 いつになったら治るのかも分からなく、また死神が睡眠以外でこうなっていたらどうなるのかは松原も知っている。これから身に降り掛かる不幸への対処を考えなければならない。
 死神はその命を刈り取るまでは取り憑いた人間を守り抜く。けれども時が来ていざその命を奪うとなると容赦はない。老衰ろうすいで死ぬのは微々たる数だ。大抵は不幸な事故や病気によって一瞬にして、たった一人で死ぬ。死神はその性質上、誰かを巻き込んで殺すなどということはしない。
 それは不確定な運命が容易たやすく人を死ぬべきでない時に死なせてしまうからだ。小さなほころびも数が増えれば重大な欠陥となり得る。最終的に死すべき時以外に人が死ぬということが横行してしまうことになる。
「死神がいなければ惰弱だじゃくな人間は生きられない。そこを突いたのがあの死神、か」
 この戦いでの基本は、相手の死神を弱らせた後に自分の死神で相手の命を奪うということだ。死神に人間が死ぬほどの傷を与えても一定値以上は反映されない。また死神はどれほど傷付けられても死ぬことはない。はずだったが例外が今回一つできた。
「しばらくは静かにしてるしかないね。あっちも被害は受けたから数日は動かないと思うけど」
 血はまだにじみ出てくるがうず疼きはなくなった。どくどくと脈打つ心臓の音も今は遠い彼方のものだ。
 松原は腰を落ち着けていた場所から立ち上がり、ここからどうやって帰っていくかを思案する。
 いくらなんでもこんな姿を他の人に見せるわけにはいかない。
「ま、どうにかなるか」
 特に後ろ盾もない彼女にはどこかに車を用意するなどといった手が使えない。まさかタクシーを呼ぶわけにもいかず、自然と取る手は一つだけになる。
「地道にやって行きましょうね」
 ふふふ、と寒気の走る怖い顔で松原は壁伝いに手を添えて歩き出す。
 太陽はすでに落ち切り辺りは薄暗くなり始めている。地平線の先から漏れてくる光だけが今の地上を照らしている状態だ。
 その様子は最後の鎖が解かれ、これから始まる出来事を暗示しているようだった。
 すぐに、暗くなっていく未来を。


 夢を見た。
 だいぶ前の、過去にあったことの夢を。
 ところどころ不鮮明で、画像の乱れた映像を見ているようだった。ところどころモノクロな部分もある。
 ただ、そこに出てくる人だけはあまりにも鮮明に映っていた。
 音はない。いつだってそうだ。そして、そのことが救いでもある。
 場所はこの家の玄関。今とは違う物が置かれている玄関。今よりも新しい感のある家。
 そこにいるのは人の数は三人。
 一人は母。一人は僕。そして一人は――
 そこにいる僕はとても幼い。まだ幼稚園児ぐらいといったところか。
 母さんも今とは違いスーツ会社服を着てはいない。それどころか私服にエプロン姿のどこから見ても主婦といった様相だった。
 小さな僕は目の前にいる男の人に何かを言った。何を言ったかは分からない。読唇術どくしんじゅつの使えない今の僕に分かるはずもない。
 けれど、一つだけ知っていることがある。
 今の僕が見えている風景は、昔の僕も見ていたということを。
 そいつは小さかった。身長が幼い僕と同じぐらいしかない。いや、それよりも小さかったかもしれない。
 白粉おしろいをこれでもかと塗りたくったような真っ白過ぎる顔。
 いつでも張り付いている薄気味悪く、どこまでも人を嘲笑あざわらっているかのようなちょっとだけの笑み。
 それでいて目はただそこにあるものを映しているだけのように感情を表しはしない。
 着ている服は黒。上から下までをたった一つの布でおおい隠している。
 手にしているのは鎌。自分のせたけ背丈ほどの鎌を両手で支えている。
「――――――」
「――――」
 母さんと男の人が笑って話していた。時折り昔の僕を見ていることからその時の僕に関しての何かを言っていたのだろう。
 それからすぐに、すでに靴をき終えていた男の人が玄関の戸を開けた。
 ニヤッ。
 僕は見た。小さい僕も見た。
 父親に憑いている死神が笑ったのを。
 その鎌を振り上げたのを。
 その鎌が――――のを。
 他には誰も気付かない。
 気付いたのは過去にそこにいた自分と、夢で見ている自分の二人だけだった。
 その日、
 父さんが心臓麻痺で命を落としたと、どこかの病院から連絡があった。


 ばっ、と飛び起きる。
 嫌な汗がシャツを気持ち悪くさせていた。この分だとパジャマも洗わないといけないみたいだ。
「二年ぶり、か?」
 確か最後に見たのはそれぐらい前だった気がする。なぜ今更そんな記憶が夢として出てくるのか知らないが、迷惑な話だ。
 透は気分を一新するためにさっさと制服へと着替えた。朝食を食べるときに制服というのはところによって好まれないようだが、透に言わせれば昼食の時は制服なのだから一食ぐらいそれが増えても構わないだろう、というものだ。ちゃんと夕食は私服に着替えているし。
「あれ? 今日は早いんだ……」
「何で残念そうなのか僕は訊かないからね」
 ノックしてから扉を開けるまでの間が酷く短かったこともあり、低血圧気味の透は不機嫌かつ冷ややかに述べた。
「ごめんなさい」
「謝るなよ。何か悪いことした気になる」
 しゅんとしてしまう愛夏に透は笑い掛ける。
 それから部屋を出るようにうなが促して一緒に出た。
 部屋を出た時には愛夏はもうさっきまでのしおらしい顔をかなぐり捨てて階段へとダッシュ。ひとりで駆け降りて行ってしまう。
 しかも、
「遅いよ!」
 とのたまわってもくれました。
「…………ふー、どうやって鍵を掛けようかな」
 透の部屋には鍵が掛けられない。なぜなら掛けるべき鍵が存在しないから。
 これが愛夏の部屋であったのなら早急に解決されていたのであろうが、残念ながら愛夏は元いた自分の部屋から鍵を取ってきて新たな自分の部屋に付けてしまっている。おかげで透は部屋の鍵を買いに行くチャンスを逃してしまっていた。
「いや、そもそも愛夏が部屋に来るようになったのはだいぶ後だし」
 透は自分の考えに自分でツッコミを入れた。
 透がそんなことをするなど珍しいこともあるものだ。
「っと」
 早く行かないとまた愛夏が何か言ってくるに決まっている。透は頭ははっきりしているが体はまだ眠っているのでゆっくりと階段を降りていった。途中、危うく足を踏み外すところだったのは誰にも見られていないので問題なし。
「にゃあ〜」
 これまた珍しくポロが起きていた。そして透の姿を見つけると擦り寄ってまできた。
「ん、どうしたんだ? おまえ」
 なんとなく抱き上げてみる。
 初めて会った時よりも成長した体は、それでもまだ軽かった。
 柔らかくふっくらとして、ぽわぽわとした暖かい体温。少しだけみじろ身動ぎされて手がむずがゆ痒くなった。
「みに〜」
 相変わらず変な鳴き声を上げることのあるポロは、いつであっても幸せそうに目を細めている。
「太らないおまえがうらやまましいよ」
 ポロは透が知る限りよく眠っている。運動をほとんどしないポロがデブ猫にならないのは山崎家の不思議の一つだ。
 なか半ば家猫となりつつあるポロを適当に遊んでから溜め息を吐きつつ床に下ろす。ポロは薄情にもさっきまでのかわい可愛らしく擦り寄ってくるということもなくごはん〜、と皿をひっくり返しに行った。
「しょうのない……」
 気紛きまぐれなネコの気分に付き合わされただけだと思うとどこかもの悲しくなってくる。それで目尻めじりを押さえると変な感触が帰ってきた。
「ん?」
 よくよく触ってみるとそれは自分の皮膚だった。フレームの感触ではない。
「それでか」
 フレームを押さえる感覚で指を使ったせいか周りから見るとあまりにも間抜けな格好だった。気恥ずかしく思いながら愛夏の姿を探すと、運良く今のは見られなかったらしい。
「今度からはこめかみを押さえるようにしよう」
 もう二度とこんな無様な姿はさらすまいと心に誓う。
「ねえ、早く席に着いたら?」
 一人で勝手に頷いてる姿を見られた。
 凄い無様だ。
「…………」
「あ、そうだ。メガネ。着け忘れてるなんて珍しいね。寝起きぐらいしか素の顔見られないからなんか新鮮」
「……取って来る」
「? どうしたの、そんな肩下げて」
 透の変貌へんぼう振りをいぶかしんだ愛夏が訊くも、心を砕かれた透には聞こえない。落ち込んではいるものの、マイナスの気を放っていなかったことが幸を成したのか愛夏もそれ以上問いただすようなまねはしなかった。
 透は目的の物を部屋に入ってから二秒も掛けずにあるべき場所へと落ち着けた。
「このメガネと付き合うのも、いい加減終わらせるかな……」
 ぽつりと呟く。
 何の気なしの一言だった。
 そしてそれはどうとでも取れるものだった。
 透が今使っているメガネは使用し始めてから五年になる。チタン製の細くて軽いフレームはこれより前に使っていた重いフレームよりも使い勝手がずっと良かった。
 落ち込んだ気持ちを無理矢理プラスの方向へとへんかん変換させながら朝食の席に着く。ポロはひっくり返した皿の下敷したじきになっていた。
「やっぱり伊達メガネなんて止めたら? 透の場合、メガネしてると逆に近寄り難い感じが出てくるし」
 愛夏がリモコンでテレビを点けて言った。透はその間にポロのエサを皿に入れた。
 最初に出てきた画面はニュース番組。朝の時間は教育テレビでも点けていない限りこれだろう。
「いいだろ。前にも言ったけど、これは気休め≠ネんだから」
 何に対しての気休めかは、誰にも言っていない。言ってもしかたのないことで、そしてこれは自分で解決しなくてはいけないことだと思っているから。
「ふうん」
 愛夏はじと目で睨んでくるが透は顔を逸らすことでそれをかわした。
 それでも視線は痛かったが。
「あ、それとね」
 透は更なる嫌な予感に背筋が寒くなる。
「今日、 も明里ちゃんと二人で食べてね。私たち、三人、他の用事があるから」
 後でたっぷりしぼるからね。
 そんな心の声が透の頭に響いた。しかも愛夏の顔はとても素晴らしく引きつってる。恐ろしい限りだ。
 真一や美浜と何をしているのかは知らないが、どうにも愛夏にはやや納得のいかないことらしい。
 結局それは推測の域を出ず、透の頭にしこりとなって残った。
 わざわざ透と、草永海さんを離して進めるような話などそうそうないように思われたからだ。
「じゃあ訊くが」
 それはちょっとした反撃のつもりだった。
 一方的に責められるだけの状態に嫌気が差したとも言うが、まあ何にせよ特に他意のないことだった。
「お前たちは何を隠れてやってるんだ?」
「うっ――」
 急にきょろきょろと視線がさ迷いだし、愛夏は言葉に詰まった。
「あー、その、それはー」
 予想外にも愛夏を窮地きゅうちに追い立ててしまい困惑する透。だがここで引くわけにもいかない。引いたら良くないことになる。かといってこのまま愛夏に吐かせてしまっても良くはない。
 だから透は眠気の残る――それが原因で余計な話題にしてしまったんだろう――頭を完全に覚醒させて事態の打開をはかった。
 トゥルルルル――――
 透が口を開いたのと同時に電話が鳴った。透は間を外されて行動ができなくなる。
「あ、電話! 取ってくるねっ!」
 これ幸いと愛夏が電話を取りに席を立つ。と、慌てたために足をイスに引っ掛けて盛大な音を立てて転んだ。
「だ、大丈夫か?」
 派手な音はまだ耳に残っている。それほどの音が出たのだ。周りに危険な物がなかったのは幸運だった。
「う、うーん……」
 音の強さに負けず愛夏は体を強く打っていた。
 引っ掛けた右足と受け身を取るようにして床を叩いた両手がじんじんと痛むらしく、その場から動けないでいた。
 トゥルルルルルー
「ん、……大事はないな」
 透は手早く愛夏の容態を確めると、騒がしくベルを鳴らしている電話を手に取った。
「もしもし?」
透兄とおにぃの――」
 聞き慣れた少女の声がじだ耳朶を打つ。こちらが応対した時の息をの 呑む様子と、今現在の溜めから、一つの結論が見出される。
「バカァーーーッッッ!」
 けれどそれを躱す猶予ゆうよは与えられなかった。
 頭を揺らす必殺の怒声に、透は意識が数瞬飛んだ。
「う……あ。か、カヤか?」
 透の問い掛けにうんと答えるカヤ。愛夏の方に目をやるとすでに彼女は起き上がってこちらの様子を観察していた。
 透は愛夏にうなづ頷き掛ける。愛夏も頷いて相手がちゃんと誰だか分かったことを示した。
 蓉院佳弥よういんかや。透のいとこ従妹にして二つ年下の中学三年生である彼女は、ことあるごとに透の家へと電話を入れるという悪癖あくへきがある。
 キーン、と耳鳴りの止まない状態で受け答えを続けるのは体の健康上よろしくないことではあったが、かといって愛夏と代わるわけにもいかない。愛夏とカヤの電話はとても長い。元々長かったが記憶を失ってからはそれがさらに顕著けんちょになっている。たぶん、少しでも失くした記憶の穴を埋めるためなのだろう。
 硬い言い方をしたが実際は失った時の補填ほてん、言わばお互いの仲を再び縮めようとしているに過ぎないということだ。
「朝っぱらからそんなのは致命的だしな……」
 時間的に余裕はあったが、そんなもの二人が話し始めれば光陰こういん矢の如しで、指の間から流れる水のようになくなる。とてもじゃないがそんなことを容認できる透ではない。
「どうした。何があったんだ」
 それに、電話口から聞こえるすすり泣きが気になる。人の事を馬鹿呼ばわりしたのだから、これは絶対に透に関係することのはずである。理由は何にしろ、泣かせた相手をほったらかしにすることは透の良心が許さない。
「さ、さっき電話があったんだよ」
「うん、そうか。電話があったのか」
 泣いてる相手を安心させるには、自分が相手の言ってることを理解してると示すことが大事である。それにはあっちの言っていることを少しだけ変えて復唱するのがベストだ。
「ぐすっ……あいつが、言ったんだよ? とおにぃが、トラックに、ひ、轢かれたって」
 あいつ――透はそう呼ばれる人物に行き着くのに数秒を要した。こんなことをするのはあの腐った記者しかいない。
「あいつが……あいつが電話してきたのか?」
「う、うん。そうだよ。とおにぃが、病院に運ばれたってことも、あいつが」
 ひっく、とカヤはしゃっくりをした。あまりにも驚いて、あまりにも衝撃的で、あまりにも酷い言い方をしたことが手に取るように分かった。
 奴はカヤに重要な部分を伝えずに、誇張こちょうと想像をり交ぜて面白おかしく悲劇≠話したに違いない。聞いた方がどんな誤解や曲解をするかを分かった上で。ましてあいつは愛夏の奇蹟≠ェ本物かどうかを証明する、という馬鹿げた理由で様々なことをしてきた。中には人を平気で襲わせたりしたこともある。
「カヤ……」
 透が次の言葉を言おうとした時、
「透! テレビを見てっ」
 愛夏の悲鳴が透の注意を家の中へと移させた。
「悪い、少し待っててくれ」
 透が受話器を電話機の横に置いて愛夏の下へと駆け寄る。それほど時間が掛かるとは思わなかったし、聞かれて困ることでもないとも思ったので電話口は相手の方と繋がったままだ。
 それに、カヤをここで突き放すわけにもいかないしな。
 カヤの様子からして彼女が今、どれほど不安定なのかはとても推し量れたものじゃない。下手に彼女の不安をあおることは避けるべきだ。
「どうしたんだ」
「透、これ……」
 愛夏がテレビを指差す。
 そこにはつい先程に起きた事故現場が映っていた。
 燦々さんさんたる被害。ガードレールがひしゃげて曲がるどころか割れ、道路にぽつぽつと立っていた街灯の一つは完膚かんぷなきまでに破壊されているのが見えた。
 そこにいる、画面左端に映る若い女性が現場の状況を説明している。
「ごらんください。ここがほんの数分前、生放送中に事故が起きた場所です。
 車のぶつかった箇所がめ 減り込んでいます。これほどの経込み、一体どれほどの衝撃があったのかを物語っています。
 そして、あちらが暴走車の最後に衝突した歩道です。もし人を轢いていたら、と思ってしまうほどに恐ろしい傷跡が辺りに残っています。
 しかし、ほんとに幸いでした。偶然にも、後一歩のところで誰も巻き込まれずに済んだのですから」
 現場のリポーターがそう言えば、局にいる年配ねんぱいのリポーターは相槌あいづち相槌を打つ。
「そうですねえ。体のほんの一メートル手前を横切ったっていうんでしょ? ほんと、これだけ人通りの多い場所で誰も引かれなかったってのは、奇蹟に近いですよねえ」
 ふむ、と頷いてから訳知り顔で事故についてその後も語っていた。
「これがどうかしたのか」
 確かに酷いが、それでわざわざあんな声を上げて呼ぶ必要があるとは思えなかった。
「待って。もう少し、もう少しでまた映ると思うから」
 愛夏が行かないで、というように透の腕を掴む。腕を掴んだ手が心なしか震えてる気がした。
「愛夏……?」
 透は途惑いはしたものの、何かしらの嫌な予感が芽生え始めていた。
 それから数十秒後、画面がまたもや事故の現場へと変わった時、そこには見たくもない相手が映っていた。
「……ッ、あいつは」
「いやあ、危なかったですよほんと。生きてるのが不思議なくらいですねえ。いやはや、運が良かったですよ」
 平べったい笑みを見せるそいつは、あの記者。有邨篠生ありむらしのいという男だ。
「そうですねえ。これだけのことが目の前で起きて怪我一つしなかったのは、運が良いとしか言えませんね」
 リポーターもインタビューされている有邨に肯定の意思を示し、共感を得ようとしている。こうやって相手を気分良くさせるのもインタビュアーとしてのスキルだ。
 その後も無事に生き残った有邨に質問を浴びせる彼女は、どこか嬉しそうに思えた。
 分かってはいるのだが、どうしてもこういう事件・事故を彼らが喜んでいるように思えてしまう。
「ただ、残念ながら運転手の方は死んでしまいました。他に乗っている人がいなかったのと、こうして轢かれる人がいなかったのが幸いです」
 しばらくの間は有邨と話し、リポーターはそう締めくく括ってリポートを終わりにした。
 その最後の瞬間、透は確かに見た。
 奴が、底意地の悪い薄い笑みをこちらに向けたのを。
「……なっ」
 気のせい、気にし過ぎ、というにはその視線は強過ぎた。
 明らかに誰かを射抜くような眼光。強固な意志で以て表される意思。不特定多数の誰かを見るにはできないものだ。
「ねえ、今……」
「ああ、見たな。こっちを」
 愛夏にも分かるほどだ。これで間違いないだろう。
 奴がこのタイミングで事故にい、それでインタビューされる。いくら事故の件数が異常なほど増えているからといって、こんな偶然があるのだろうか。偶然だとしても、幾らかは狙っていたのではないかと疑う。
 答えは、否。奴はこうすることでこちらを挑発しているのだ。さあ、お前らもこんな風にインタビューされろ、と。
 一番最後にああしたのは、きっと一瞬でも目にすれば最後まで自分たちが見るということを見越してのことだ。本当に恐ろしい。
 そして、今のことでこの前あった事故のことが気になり始めた。
 あれは本当に事故なのかと。あいつが起こした事件ではないのか、と。
 事故後すぐに気を失ったりして記憶が曖昧あいまいではあるが、何か普通では起きないことを目にした気がする。それも、重要なことだ。今だけでなく未来にも関わる大きな……。
「カヤ、済まなかったな。ちょっとごたごたしてて――」
「今、映ってたんでしょ? テレビに」
「見てたのか……」
「うん……。こっちにも映ってたから」
 電話を離れてる間に少しは落ち着いたカヤと一言二言話をし、学校があるからと言ってカヤの方から電話を切った。
「愛夏、もう時間だ。早くしないと遅れるぞ」
 透はつとめて明るく振る舞った。
 それが無理矢理なものであることは重々承知していたし、こうしたからといって場の雰囲気が良くなるわけでもない。
 しないよりはマシという極めて消極的なことでしかないのだ。
「ねえ、透」
 諸々もろもろの所用を終わらせて玄関を開けようとしていた透を愛夏が呼び止めた。
「大丈夫、だよね」
 振り向いた透が見たものは、儚くもろいガラスの表情。ほんの少しの傷で、全てがにごってしまう感情。
「大丈夫。僕も、真一も、美浜も、草永海さんだっている。何も心配はいらないさ」
 まだ靴をくことさえしていない愛夏の正面に立ち、その顔を真っ直ぐに見る。安心させるための微笑ほほえみを見せて、所在なげに宙を浮いている手を掴む。
「行こう。大丈夫だから」
 手に力を込めて引っ張る。それに引かれて一歩を踏み出す愛夏。
 そうして、扉が開かれた。


 冴えない頭で車を運転するその姿は、一見して外からでは不機嫌としか映らない。
 ノリの良いアップテンポの曲を奏でさせながら真っ赤なスポーツカーを爆走させる姿は何とも言い難い。
 容姿に恵まれた彼女は、途中の信号をぼんやりした頭で二つ三つ無視した記憶がありつつも、それでも事故にならなかったのはひとえに日頃の行いだろうと勝手に納得する。
 昨日受けた柔肌への傷は服の下へと隠れて見えはしない。それほど大きな傷でなかったのもあってか痛みはうっすらとした感じでしか現れない。業務に差し障りのある被害がないことを喜ぶべきか自分の油断を厳しく追及するべきか。普段からして怠け者に近い性質を持つ彼女には悩みどころだった。
「まあ、気にしてもしょうがないか」
 昨日のことも、今朝どころか現在進行形で無視している危険信号も。
 と、そこで何やら胸の内ポケットを片手でまさぐり始める。
 片手運転で車を走行させ、辺りの被害などお構い無しにかっ飛ばす。
 それはまさに周囲の迷惑をかえり顧みない危ない人そのもので、実際に何度か他の車と衝突しそうになっていた。
「あったあった。まったく、何をぼんやりしてたりしてたのかしらね」
 呟いて、手にしたシナモンスティックをじっくりと見る。片手運転によそ見運転までもが加わり、赤いスポーツカーは誰にも止められない暴走車と化していた。
 哀愁の瞳で見つめること数瞬。その間に常人ならば一体何度死んでいたであろうか。考える気にもならない。
「昔のことにうつつを抜かすなんて、やっぱりだめね」
 そうして、彼女は面倒臭そうにそれを口へと運んだ。
 執着というものがほとんどない彼女の、数少ない執着する物がシナモンスティック過去の出来事だった。
 別に酔狂すいきょうでこんな物を口にくわ咥えているわけではない。れっきとした理由があってそれをしているのだ。
「死≠チて、何なのかしらね」
 過去に語り掛けられた言葉を、今度は自問と言う形で浮かび上がらせる。
 車内の中に、一見してそれと分からないようなところに一枚の写真がられていた。
 そこには今とは全く違う姿の彼女がそこにいた。そしてもう一人、そこには十近くも歳の離れた、今の彼女より少し上の男が傍らにいた。
 風に揺られて踊ることもなく、ぺったりと貼られた写真は見る者にどこか眩しさを与える。
 けれども彼女がそれを写真立てに入れもせず、他の所に大事に保管したりせず、運転席からは見える位置に無造作に貼ってあるのは、本人にとっていつまでもそれがいましめ≠ナあるからに他ならない。
 彼女はそれを見て言う。
「馬鹿馬鹿しい、余計な物に執着してた頃の私」
 嘆息。そして今一度、先に述べた問いに対する答えを並べる。
「人生の終わり、今まで存在した全てのものの回帰、ただただちてく物語、どれもが正解で、どれもがはずれ。答えは死んだその人一人しか持ち得ない永遠のテーマ」
 反対車線を走るトラックとぶつかりそうになる。だがこれを彼女は一瞥いちべつさえくれずに回避した。いや、危険が迫っていたのを感じたかさえ怪しい。
「いまだに答えの出せない私は、死んだその時にさえ答えを出せないのでしょうね」
 自嘲じちょうし、苦笑する。
 何が死だ。
 何が答えだ。
「ふざけやがって」
 思い出す。最後の時。
「人を護って、人を助けて、何一つ教えずにって、結局最後は人を置いて行って」
 知らず、彼女はアクセルを踏んでいた。加速する速度に風がほほを打ち、たなびく髪は荒々しく。
「あんた追っ掛けて教師やっても分かんないし、生徒は気に入らないのがほとんどだし、気が付いたらどんな手使ってでも生徒を危険から護ることしかできないし……。変なのに巻き込まれるし、痛いし」
 段々としぼ萎んで行く声。仕舞いには顔を伏せて嗚咽おえつまで出してしまっていた。
 もちろんその間も運転はなされてるわけで……その軌跡は目も当てられないほど酷い。
 不可思議な力で惨事をまぬが免れてるとしか思えないような状態だ。
「あーみっともない。化粧してなくて良かった。ったく柄にもない感傷なんて、このケガが影響でもしてんのかね」
 持ち前の切り替えの速さでちゃちゃっと相貌そうぼうを崩し、パタパタと手であおぎ胸元に風を送った。
「湿っぽいのはみな却下〜っと、うん?」
 だらしなく、夏の暑さにやられでもしたかのようにだらけきる。ようやっと外界に意識を向け始めた彼女が最初に見たものは、見覚えのある生徒たちだった。
「仲良く五人で登校です、ってね。ちょっと話してくか」
 落ちることを知らなかったスポーツカーが、今、次第にそのスピードを緩めていった。


「松原先生」
 不意に道端に止まった真紅のスポーツカーから顔をのぞかせるのは、学食の校医である松原志枝しえその人だった。
「おはようね、仲良しこよしの五人組」
 うふふと大人な感じで微笑する彼女は、パリッとしたスーツに身を包み、朝であってもその瞳の中に強い光がある。あこが憧れる女子も多いだろうと透は思った。
 ただ、こんな物凄い女性ひとが量産されたらさぞかし地球の男性諸君は困るだろう。どんな方面で困るかは人それぞれではあったが。
「えっと、だれ?」
 自称親戚しんせきの真一、かつては学食三昧であったという美浜、昨日あった明里と透は彼女のことを知っていたが、唯一一人だけ彼女のことを個人的に知らないのがいた。
「あらあら、この学食にこの人ありとうたわれた学食の松原≠焉A勤務五年目にしてついにかげりが出てきたか」
 茶目っ気たっぷりにそう言うと、目で真一に自分を紹介するよううながした。
「えーと……」
 視線を泳がせ、何やら答えあぐねる真一。どうしたものか考えている風にも、何も言うことが思い付かないかのようにも見えた。
「ああまあ、うーん」
 その姿は最早完全に挙動不審としか言いようがなく、今ここで真一が警察に捕まっても誰もフォローできそうにはなかった。
「はっちゃけたお姉ちゃんです」
「………………」
「………………」
「………………」
「………………」
 一同、沈黙。
 まさか頭をぽりぽりと掻きながら気恥ずかしそうにそんな事を言われるとは思ってもみなかった友人四人は、ある者は口をあんぐりと開け、またある者は空を仰ぎ見て、そしてまたある者は現実逃避の妄想をふくらませ、最後の一人に至っては憮然ぶぜんとそう口走った相手を見るのみであった。
「は、ふふ。あんた、今何を口走ったか自覚してる? してるんならこれを口に咥えてみな。ダイジョウブダカラ」
 この場でたった一人、状況把握はあく能力が正常であったのは、そう言われた本人のみであった。
 言った本人である真一でさえ心ここに在らずとしていた証拠に、松原先生に差し出されたとてつもなく辛いことで有名なガムを、身構えることもなくぱっくんと食べた。
 しかも、味覚まで支障をきたしていたのか何度も噛んでからやっと悲鳴を上げ――ることなく地面に倒れた。ぱったりと、軽い音を立てて後ろに。
 人って気絶してから倒れると足が上に上がることないのな。足は地面から離れないぐらいに。
「うわっ、これぐらいで気絶するとはね。きたえ方が足りないよ」
 ねえ?
 松原志枝は生き残った四人に困った顔で訊いた。
「ど、同意を求められても……」
 突発的な味覚を蹂躙じゅうりんする攻撃を、どう鍛えれば耐えられると。
「まあ、いいわ。学校には遅刻しないようにだけしてね。くれぐれも、学食の先生が何か食わせたとか言ううんじゃないよ。何かしたってのなら、まあセーフにするけど。食べさせたってのだけはダメだから」
 この念の押しよう。この人にとって真一よりも自分の担当する学食――正式名称、学生たちの食に関する研究所――の方が大事と見える。
「そこの四人! 顔に出てるわよ」
 どうやら全員が同じようなことを思ったに違いない。
 透は目も当てられないとばかりに顔を手でおおって首を振った。
「ほんとにもう……。それじゃ、私はもう行くから。そいつをしっかりと学校まで運んで来なよ?」
 そっとう卒倒した真一を置いてけぼりにして、松原志枝はクリムゾンレッドの機体を慈悲の一欠片ひとかけらも残さずに発進させた。
「……悪夢だった」
 透は無意識のうちにそんなことを言い、他の三人は自然に頷いていた。
 地面に寝そべった不幸な犠牲者のことを忘れて。


 豪快なエンジン音に聞き入り、さっきあった過失事件――この時点で真っ赤な嘘――を忘却の彼方へと追いやり、更には誰も被害を受けなかったと記憶を改竄かいざんして愛機を走らせること二分。
 彼女はようやっと、弱っていた気持ちによって引き出されていた過去の記憶や感傷のまどろみから抜け出した。
 そして、次に入り込んだのは負の悪循環スパイラルだった。
 無意識から意識でのハンドル操作に代わったことが原因で、時が来るまで自分を護る死神がいないことで、さっきまでとは違うあわやという事故が起き掛けていた。
「くっ、まさかこれほどとはねっ」
 悪戦苦闘というに生温い、獅子奮迅の活躍で事故を未然に防いで見せ続ける。
 右へ左へのらりくらり、千鳥足の運転手が見せる蛇行運転が可愛く見える素晴らしい運転テクで突っ走る赤い車。
 最近異常に増えた事故がドライバーに危機感を与えていたせいか、先程までもそうであったようにどの車もいつも以上に安全運転を心掛けていたために間一髪で誰もが命をながらえる。
「ちっ、このままじゃあジリ貧ね。交通量が少ない上にゆっくりだから助かってるだけ。ほんとに、どうしようかしら」
 彼女が今一番心配しているのはラジエーターが異常をきたしてしまうことだ。さすがにこれが壊れれば長くは走れない。というより確か炎上・爆発へのプロセスまっしぐらだった気がする。この知識が間違っていれば全くの杞憂で済んで万々歳なのだが……真相はどうなのだろう。
 しかし真相はどうあれ、車が壊れてしまうのはいただけない。色々な意味で。そして彼女は彼女の理由でとてもではないが受け入れられなかった。
「傷ぐらいは許すわよ。どうにかして隠したりできるから。でもね、そんな未来はダメよ。断固拒否っ! まだ三年しか乗ってないのに!」
 脳裏にうるさいくらいにチラつく最悪な光景に叫びを上げていると、それに呼応したように相棒が唸りを上げ始めた。
 ヴヴヴヴヴヴヴッ!
 それはエンジンのたか昂ぶりであり、同時に限界が近いことを示すサインであった。
 ラジエーター云々うんぬんの前に内部温度の限界に到達したらしい。中の備品が熱で融解ゆうかいしたりしないことを祈るのみだ。
「……っ、この、もう少し大人しくしなさいっ。ペシャンコのでろんでろんに成りたいわけじゃないでしょうがっ」
 自分でもいまいち訳の分からないことを言って叱咤しったしつつ、じゃじゃ馬の制御を神業並のドライブテクで扱い切る。
 紙一重で事故を回避して先へと進み続ける。ブレーキが利かない上にスロットルペダルまでもが壊れた今の状態で思い浮かぶ理想の止め方は、彼女の頭では一つしかない。
 ドリフトを利かせて大きい壁に車のサイドをぶつける。
 それしかない。というかそれ以外だと車がおしゃかである。それは絶対に避けなければならない事態である。
 例え人を轢いてしまうようなことがあっても起こしてはならない彼女の最優先事項だ。
 曰わく、私が今生きてる理由の半分があれで、三分の一がこれ、残り六分の一は惰性だせいとすこしはある面白いことに出くわすことに期待してるからとのこと。
 人死にはまずいとは思うがそれ以外ならオッケーという人だった。
「どうしよ。もちそうにない……」
 幾らなんでもメーターが制限速度を倍近く越していたら泣きたくもなる。なにせ望んで出してるわけではないのだから。
「こうなったら、荒業だけどどっかに突っ込むしかないわね」
 彼女は理想に固執こしつし過ぎて全てを台無しにする阿呆ではない。それだけしかダメということでもない限り妥協はする。
 覚悟を決めた今、ギアをトップに入れる。プライドがそうさせた。これはまさに命懸け。自分だけでなくこいつにも全力を出させないでどうするというのだ。
 それは昔の名残なごりであり彼女自身根深い所に存在する死へのあいたい相対でもあった。血が渇望かつぼうする、とでも言えばいいのか。
 とにもかくにも、彼女はここで最速を出さなければ気が済まないような興奮状態になっていた。
鬼姫おにひめ≠舐めんじゃないわよ!」
 直線的な道へと入った時、ストロークを深く踏み込む。前に一台も車がないことを確認してからの行動だった。
 自分の半身とも言える車が自らの求めに応え、爆発的な加速を始める。
 松原志枝はそのことに笑う。笑った。
「最高よ。このまま行けば上手く飛べそうね」
 この先には一つの川があった。橋でつながれたその川には土手があり、彼女は橋からその土手に飛び降りるつもりであった。
「通学路を離れれば生徒への被害も出ないし、ね」
 この川はほとんどの生徒たちには通学路として使われてはいない。彼女が知る限り一人だけ使っていたが、この時間にドンピシャでいることなど確率的にはかなり低い。
 一息に橋まで突っ走ろうとした時、彼女は臭いを嗅いだ。
 嫌な臭いだった。
 視界に一人の男が入る。記者風の、一見して世の中を舐め腐っているかのような態度の男。
 それは同族の臭いだった。負の部分に特化した同族の臭い。
 何となく分かる。
 こいつは自分と同じだ。
 どこが同じなのかは知らないし分かりたくもない。けれど感じる。どこか、例えようもないところで似ていると。
「まっずいわねえ」
 どうしようか。
 偶然か否か。その男はちょうど、彼女がこれから突撃を仕掛けるポイントへの射線上にいた。
「ま、いいか」
 どうせ止められないし。
 言外にそんなニュアンスを含んだことを言う。
 男はどの道直線上の先にいて、彼女がどんなことをしても車は止められない。このまま行く限り衝突は避けられない。こっちから避けるなど言語道断。そんな殊勝な心掛けをするくらいならとっくの昔に、それも十代の頃にしている。
 故に、彼女はそのまま男を跳ね飛ばし、そのままの勢いで土手へとダイブし、スピンを掛けながらドリフトを敢行かんこうして減速。適当な壁代わりになる物を一瞬の内に探し出してぶつけた。


 後に彼女を知る者はすべからくこのスリップ事故≠ノ対して頭を捻った。
 曰く、鬼の霍乱かくらんか? と。







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