「おはよう」 玄関の扉を閉じる音を後ろ手に聞きながら、家の前に立っている人物へと声を掛ける。 「おはよう」 にこやかに笑みを浮かべて返すのは、幼馴染みの少女。 「遅かったね」 「教科書の入れ忘れにさっき気付いたんだ」 「そうなんだ」 快活な彼女の、ボブカットにした髪がさらさらと揺れる。肩に掛けたバッグの重みを感じて直す。 「もうすぐ夏休みだね」 空を見上げて眩しそうに彼女は目を細めている。 手に提げた学校支給品の、片手で持つ昔風の 彼女も使っているそれは、自分にとってはわざわざ他の鞄を用意するのが面倒だったからだ。宿題とそれに使う教科書やノートしか持って帰らない。少女がどんな意味でそれを使っているのかは残念ながら知らなかった。 「それはもう何日も前から聞いてるよ」 「もう、そっけないなぁ」 「面白い人間じゃあないから」 肩をすく竦めるようにして言うと、彼女はむっとしたような顔になる。 「じゃあなに? わたしはこれからもずっとつまらない人と暮らしてかなきゃならないわけなの?」 「そういうことは言ってないさ。でも、冗談を言う性格じゃないのは一番よく知ってるじゃないか」 「……わたし≠ヘ知らない」 その言葉に、はっとする。そうだった。今≠ヘもう、彼女は僕のことを何もかも忘れてしまっていたんだった。いや、自分のことだけじゃない。家族も、友人も、皆。 「ごめん」 「ううん、謝らなくて良いから。ほら、知らなくてもこうしてやっていけてるんだし、ね」 彼女の言葉には何一つ嘘がないと分かっている。だからこちらも思い浮かんだ言葉をすぐ口にする。 「そうだな。優しい奴らばっかりだから」 「うふふー、うらや羨ましい?」 「大勢でいるのは好きじゃないんだ」 「ふーん。そういうことにしといてあげましょう」 明らかにからかっていると分かる口調で言葉を 「なんだよ。それじゃまるで本心は違うみたいじゃないか」 「どうでしょうねー」 そう言って前へ駆け出す姿は、本当に 「先行くねっ」 もっとも、そのまま置いてけぼりを喰らうのは 「あれからもう三ヶ月か。早いな」 なんとはなしに空を見上げ、呟く。 思っていたよりも早く順応した彼女に感嘆せずにはいられない。もし自分が何もかもを忘れてしまったとしたら、こうも元気でいられただろうか。 「あ」 どうしようもない状況になってから思い出したことが、一つ。 「ポロのえさをやるのを忘れてた……」 何か足りないとどこかで思っていた。それが解消されれば普通は気分が良いのだろうが、残念ながら今回は逆だ。 「どうにかなるかな」 もうだいぶ家から離れている。今から戻れば確実に遅刻だろう。けれど、だからといってこのまま行くのも良心が痛んでしかた仕方がない。まさにどっちつかずの板ばさ挟み状態だ。 「ん、う」 ひとしき一頻り悩んだ後、結局はポロに我慢してもらうことで決着した。一食ぐらい大丈夫だろう。できるだけ早めに帰るから。 いつの間にかずれたメガネを片手で直し、遅れた分を取り返そうと少しだけ早足で移動した。 一ヶ月前からぎこちない関係へとなってしまっていたが、それでも昔からの付き合いということで見送りに行くことになったその時、愛夏たちの乗る飛行機のパイロットが、もう長くないことを知った。もちろん、副操縦士もそうなることを確認した。 当然の如く旅行に行くことを必死で止めた。それはもう、気が触れたとしか思えないような形相で、乗るな! と口走っていたらしい。あまりにも必死すぎて引き止める言葉を言っていたということ以外覚えていない。 ただ、愛夏が冷たい目で自分を見ていたことは覚えている。とても、冷たい目で。 結局、最後には警備員他、その場の雰囲気とかいうやつで取り押さえてきたのもいて、みすみす飛行機に乗せてしまった。だから、今でも後悔している。もっと良い方法はなかったのかと。 愛夏たちの乗った飛行機は、予想通り――何で当たるんだ――飛行途中で墜落した。乗員乗客のほとんどが死ぬ大惨事だった。しかも、落ちた場所は交通量も人通りも多い所で、巻き込まれて死んだ人も百人近くいたそうだ。 運良く飛行機に乗った中で生き残ったのは、愛夏も含めてわずか三人。けれど、飛行機が墜落してこれだけ生き残っているのは珍しいらしい。 そして、愛夏は病院で目を覚まし、何が起こったのかを知ると、自ら記憶を閉ざしてしまった。医者が言うには時間が経てばゆっくりと思い出していくそうで、心が耐えられるよう根気強く待たねばならないそうだ。 その後も大変で、愛夏の家には当たり前のように記者たちが押し寄せ、それに対抗するかのように嫌がらせも行われた。 やっている方も分かってやっているのだろうが――中には愉快犯もいて心底腹が立ったこともあったが――生き残った者を責めずにはいられないのだろう。家族、友人、恋人とを突然に失った彼らには、そうすることぐらいしか思い付かなかったのかもしれない。 けれど、それでも僕は言いたい。自分が何で責められるのかも分からない相手の心を傷付けるのは。 泣いた姿を見たのは一度だけじゃない。こっちが狂ってしまうんじゃないかというほどに見た。いつまでも続く嫌がらせに、何もかもを失くした人間が立ち向かえるわけがない。 独りぼっちになってしまったばかりの少女を、こぞって マスコミはどれほど言っても下がらない。嫌がらせは返すほどにエスカレートする。警察は役立たずで弁護士も、法的な措置がどうこう言うだけで無能だった。 とうとう、手を振りかざして追い払えば今の若者は――、と論点違いの非難を浴びせ、それに追従するかのように愉快犯たちがあざわら嘲笑う。最悪な二ヶ月だった。 それも遂に終わりを告げる時が来た。まだどこかの遺族たちが嫌がらせをしてきたりもするが、マスコミや愉快犯は時間という風化に諦めと飽きを起こした。 やっと、心休まる時が来たと思ったのだ。この時は。 |